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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2007年4月16日


源平桃

    今日こそ主の御業の日。
    今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

    恵み深い主に感謝せよ。
    慈しみはとこしえに。
    イスラエルは言え。
    慈しみはとこしえに。

    主の右の手は高く上がり
    主の右の手は御力を示す。
    死ぬことなく、生き長らえて
    主の御業を語り伝えよう。

    家を建てる者の退けた石が
    隅の親石となった。
    これは主の御業
    わたしたちの目には驚くべきこと。

    今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
                      (詩編 118.24、1~2、16~17、22~24)

今年も復活祭を迎え、カトリック教会は、新しく洗礼を受けた兄弟姉妹とともに、主のご復活のよろこびをたたえて祝っています。イエスの復活は、キリスト教の中心となる出来事です。キリスト教の信仰は、復活への信仰で、イエスの復活がなければ、キリスト教は存在しません。イエスの復活は、新約聖書で四つの福音書すべてに書かれていますが、実際にその瞬間に起こったことを見た人は、誰もいません。イエスの復活が事実であったことは、復活したイエスに出会った弟子たちの証言によりあきらかです。今晩のアレオパゴスの祈りでは、明日の復活節第2主日に読まれるヨハネ福音書、第20章のトマスの話をご一緒に見ていきましょう。

イエスの復活の喜びをともに祝うため、わたしたちをここに集めてくださった神に感謝をもって、ローソクを祭壇にささげましょう。

イエスは、十字架につけられ殺されてから、3日目に復活し、弟子たちの前に現れました。しかし最初にイエスが現れたとき、トマスだけはそこにいませんでした。トマスは、イエスの復活を“自分の目で確かめるまでは決して信じない”とその報告を頭から否定しました。それから一週間後、再びイエスは、弟子たちのところにあらわれます。今度は、トマスもいました。ヨハネによる福音書を聞きましょう。

朗読:ヨハネによる福音(20章19節~29節)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしは、主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸はみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

カラバッジョ
カラバッジョの描いた、復活したイエスの脇腹に指を入れる聖トマス

復活したイエスが弟子たちに現れます。イエスが死刑にされてしまったので、弟子たちは自分たちの身の危険も感じます。怖かったので家の戸には鍵をかけていました。イエスの遺体を納めた墓が空になっていたことも、この日の朝から弟子たちは知っています。悲嘆にくれ、困惑し、先の見えない暗がりの中にあった2日間はとても長く感じたことでしょう。イエスの「あなたがたに平和があるように」ということばは、弟子たちに本当に平和をもたらすものであったと思います。復活したイエスとの出会いは喜びと平和を与える体験であったことを福音書は伝えています。ところが、そこに居合わせなかった弟子がいました。それが今日の主人公のトマスです。

この使徒トマスは、以前イエスがあえて危険を冒してユダヤに行こうとしていたとき、仲間の弟子たちを励まして「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言った弟子です。その誠実さ、善意のために、自分の失敗を人一倍悔やんでいた一人だったかもしれません。そしてトマスは疑い深い性格だったのでしょう。疑い深いトマスは、自分で体験しないかぎり、イエスの復活を信じないと言い張ります。一週間におよぶ仲間たちの証言も無駄だったようです。トマスだけが喜びの輪の中に入れずにいます。そこにもう一度イエスが姿を現します。それはこの信じられずにいる一人の弟子のために心を配るイエスです。あたかも失われた一匹の羊を捜す羊飼いのようなイエスの姿が伝わってきます。イエスの手に残る釘の跡、わき腹に残るやりの傷跡(ヨハネ19:34)は、まさにあの殺されたナザレのイエスであること、弟子たちに裏切られて一人で死んでいったイエスが目の前にいることを示していました。イエスはトマスに以前と同じように優しく話しかけます。実際にその傷ついた手を差し出していたのかもしれません。信じるためにはどの人にも同じ手順や方法がふさわしいのではないことを知っているイエスの心遣いのこまやかさを見るような気がします。

(沈黙)

それまで、この神秘的なできごとに心を閉ざしていたトマスが、このイエスとの出会いでいっぺんに変えられています。それは自分たちの失敗や裏切りをゆるし、平和を与えてくれるイエスとの出会いでした。トマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」と答えます。それは、今まで従ってきたイエスが自分にとって本当にだれであったのかを理解したトマスの信仰告白でした。イエスが復活したという知らせは、たしかに福音、良い知らせです。しかし、イエスの復活が自分にとって具体的に何を意味しているのか、それは私の生き方とどんな関係があるのかということは、イエスと出会う体験なしにはわたしたちに力を与えるものではありません。

ヨハネはこの物語を「見ないのに信じる人は、幸いである」ということばで締めくくっています。イエスがわたしたちを信じるように招くのはそれが「幸い」だからです。
             …… 以上、『イエスの愛、イエスの足跡』(菅原裕二著女子パウロ会刊行)より

ヨハネ福音書によると、イエスが亡くなったあと、「兵士の一人が槍でわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た」と述べています。そのわき腹には大きな傷があります。十字架の上で亡くなった同じイエスがそこにいます。人間的にはみじめで、痛々しい傷ですが、その傷跡がいま、輝く神さまの栄光を現しています。イエスは、わたしたちが抱えている根本的な罪、神を信じることのできない闇をあがなうために傷を受けました。「あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。」そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエスがトマスに呼びかけています。このことばにしばらく留まりましょう。

『祈りの歌を風にのせ』 p.40 「主はよみがえられた」(二回繰り返す)

今日のトマスの物語をとおして、復活の主イエスは、失われた子羊を探す羊飼いのように、わたしたち一人ひとりのことを心にかけ、わたしたちが闇の中にあるとき探しに来てくださる方であることがわかります。わたしたちが一人ぽっちで孤独の中にいるときに、信じる者となるようにご自分を現して、信仰へと招いてくださる方です。

再び弟子たちに現れたイエスは、まっすぐに、いちばん傷ついているトマスに向かっていきます。くぎの跡を見せながら、死を越えた力強さをトマスに確かめさせるのです。あきらめと絶望の深い闇の中にいて、人間不信になっていたトマスは、イエスの十字架の傷跡に触れるとき、心がひらかれます。トマスの心は、懐疑から信頼へと変えられていきました。

このトマスの救いの体験をとおして、イエスが語ってくださった「見ないのに信じる人は、幸いである」は、イエスを直接見ることができないわたしたちにとって、イエスのわたしたちへの祝福のことばではないでしょうか。弟子たちの後の時代のキリスト者は皆、「見ないで信じる者」だからです。信仰とは、常識を越えた世界との出会いです。イエスと父である神とのつながりは、死によって断ち切られませんでした。それは、イエスとわたしたちとのつながりも死によって決して断ち切れないものであることを語っています。

(沈黙)

『祈りの歌を風にのせ』 p.20 「キリストの平和」①~⑤

主の復活の主日から復活節の50日間、毎日唱えられるアレルヤの祈りをキリストの母である聖母マリアとともにご一緒に祈りましょう。

『パウロ家族の祈り』 p.25 「アレルヤの祈り」

    神の母聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
    あなたに宿られた方は。アレルヤ。
    おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
    わたしたちのためにお祈りください。アレルヤ。
    聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
    主はまことに復活されました。アレルヤ。

    祈りましょう。
    神よ、あなたは御子キリストの復活によって、
    世界に喜びをお与えになりました。
    キリストの母、聖マリアにならい、
    わたしたちも永遠のいのちの喜びを得ることができますように。
    わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

『カトリック典礼聖歌』 No.27 「全世界に行って」① ②

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