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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2010年10月2日


ホトトギス



   神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。
   深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
   わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。

   ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。
   わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
   喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
   わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。
   神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
                (詩編51.3~4、9~12)
 

暑かった夏も過ぎ、ようやく秋の訪れを感じるようになりました。 10月は、道、真理、いのちである師イエスにささげられた月、10月の最後の日曜日には、師イエスの祭日を祝います。今晩のアレオパゴスの祈りでは、十字架の死にいたるまで御父に忠実に従われた、師イエス、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と徹底的に奉仕の道を生きられた彼の模範に触れ、みことばを聞きながらご一緒に祈りたいと思います。

 
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
                (マルコ10.42~45)
 

イエスが語ってくださっているこの言葉に注目しましょう。イエスは偉くなりたい人は、人を支配し権力を用いるのではなく、すすんで人に仕えるようにと招いています。

今、しばらく、わたしたちの心を神様に向けましょう。主がわたしたちの心の目、心の耳を開いてくださいますように。この静けさの中で、祈りをとおして、神様からの語りかけや働きかけを敏感に気づくことができますように。

(沈黙)

祭壇にローソクをささげましょう。祭壇上のハガキをお取りになって席へお戻りください。

イエスが人々に仕えることを身をもって示してくださった、ヨハネ福音書を聞きましょう。

ヨハネ福音書 13.1~15

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時か来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と言われた。

ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは『もしわたしが、あなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「すでに身体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、ご自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと模範を示したのである。」
 

(沈黙)

ヨハネ福音記者は、この場面を非常に荘厳に描いています。先生であるイエスが、弟子たちの足を洗い、仕える模範を示されました。ただ、あなたがたも足を洗い合いなさい、ということを言うだけなら、このような厳かな書き方や、不思議な場面は必要なかったでしょう。この場面の奥には、神の深い愛の神秘があります。それがはっきり表現されているのは、イエスとペトロの対話のところです。イエスがペトロに分かってほしかったこと、与えたかったこと、そして実際にそれらをなさったイエスの心を知るよう、わたしたちも招かれています。

イエスは、この世から御父のもとへ移る大切な自分の「時」が来たのを悟って、弟子たちを極みまで愛し、その愛をお示しになりました。だれでも最期だというときには、自分の最愛の人に、これだけは分かってほしい、伝えたいということを残していきます。イエスはこの大事な瞬間に何をなさったのでしょうか。

「夕食のとき…食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ・・・たらいに水をくんで」とあります。夕食の途中ですから唐突です。ただならぬことが起ころうとしていることが弟子たちの前に強烈に印象づけられます。異常さを感じさせるほど、場面は重々しさをもっています。このような仕方によって、イエスは弟子たちに何かを示し与えたかったのでしょう。

当時の社会では、客を迎える主人は、洗足用の水を用意するがふつうでした。しかし、通常、客は自分で自分の足を洗ったのであって、他人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。ただときとして、先生の足を弟子が洗うことはありました。しかし、どうみても、イエスのこの行為は弟子たちにとっては思いもよらぬことで、理解しにくいことでした。過ぎ越しの食事を中断して行われたのですから。

(沈黙)

 

イエスの「時」はついに来ました。その大事な「時」にイエスは「御父がすべてをご自分の手にゆだねられたことを知って」その行為をされました。したがって、このときに、イエスは神がどういう方かを、しっかり現されたということだと思います。今のこのイエスにおいて、まさに神が現れています。このことが大事です。つまり、イエスが御父のもとからこの世に来られたのは、弟子たちの足を洗うためであったと言えます。神はこういう方、弟子の足を洗う方、仕え尽くす方、自分の命を投げ出して愛し尽くす方だということ現したかったのです。弟子たちの足下へ、裏切り者のユダの前にもへりくだって足を洗われました。

ここで使われている「上着を脱ぎ」の「脱ぐ」はギリシア語で「ティセーミ」という言葉です。ヨハネ福音書では、「命を捨てる」という意味でも使われています。ですから、まずこれを受け入れなさい、そうでなければあなたとわたしは関係がなくなるとペトロに言われたのです。このイエスの洗足を、このイエスの愛を受け入れることによって、弟子は本物の弟子になっていきます。

同じように、わたしたちにも、神は人の足を洗われる神、まず、そのような神の愛を受け入れなさいと、イエスは言われます。そうして真の弟子となり、イエスと固く結ばれてイエスの友となります。その結果、わたしたちも他人の足を洗うことができるようになり、そしてそれができたとき、真にイエスの心が分かるのです。

今聞いたことの中で、特に心に残ったこと、響いたことにしばらく留まりましょう。

(沈黙)

イエスが人々とともに歩まれた道は、最後まで奉仕の道でした。この道を示してくださったイエスにわたしたちも従い、互いに足を洗い合う者となれますように。

『パウロ家族の祈り』p.175「師イエスに向かう祈り」② 

   わたしの守り手、神のみ使いよ、
   師イエス、御父の最愛の子であるあなたを礼拝します。
   あなたは御父のもとに行く唯一の道です。
   わたしたちの模範となってくださったことを感謝します。

   あなたは崇高な愛の模範を残し、
   地上ではあなたに従い、天の国ではあなたとともにいるよう
   人びとをお招きになりました。
   あなたの地上の生活のさまざまな時期を観想し、
   あなたの教えを素直に受け入れ、
   あなたの歩まれた道をたどり、
   自分自身から解放されて、ただみ旨だけを求めることができるよう
   わたしたちをあなたのもとに引き寄せてください。

   終わりの日にはあなたに似た者となり、
   天の国では永遠にあなたとともにいることができるように
   わたしたちの希望を強めてください。

   道・真理・生命である師イエス、わたしたちをあわれんでください。

 

次の画像をご覧ください。

弟子の足を洗うキリスト
弟子の足を洗うキリスト
絵:フォード・マドックス・ブラウン

 

この絵は、イギリスの画家、フォード・マドックス・ブラウンの「弟子の足を洗うキリスト」です。ブラウンは1852年にこの絵をロイヤル・アカデミー展に出展しました。しかし、その後大幅に加筆修正したと言われています。題材は、最後の晩餐です。聖書に、"除酵祭の一日目の夜、キリストと12人の弟子たちは過越の食事を共にしていた。"と記されている場面です。

最後の晩餐と言われている過ぎ越しの食事は、新約聖書の4つの福音書すべてに記されていますが、キリストが弟子たちの足を洗ったエピソードは「ヨハネによる福音書」(13章)だけが伝えています。

「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」とあります。

描かれているのは、ちょうどイエスが弟子のペトロの足を洗っている瞬間で、イエスは洗い終えた足を、腰の手ぬぐいでしっかりと水気をぬぐいとっています。ペトロは深く腰掛け、うつむき加減にイエスをじっと見つめ両手を組み合わせています。傍らには彼のサンダルが脱ぎ捨てられているのが見えます。

イエスの頭には、光の輪がかかっています。ブラウンは、はじめ“上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとった”という記述から、イエスの上半身を裸に描いていたようですが、後の加筆で衣服を描き加えたと伝えられています。

背後のテーブルには他の弟子たちがいて、みんな戸惑った様子で2人を見ています。弟子の中で左端にいる、サンダルの皮ひもを緩めているのはイスカリオテのユダです。彼は、サンダルの紐を緩めて待機しているようで、イエスは、ペトロの次にユダの足を洗われたのかもしれません。ユダは、イエスから足を洗ってもらった後、銀貨と引き換えに先生のイエスを敵に売り渡してしまいます。彼の前のテーブルに置かれている白い皮袋はおそらく金入れで、彼が会計係として、金銭をまとめて預かっていたのでしょう。彼が銀貨30枚と引き換えにイエスを売ることを暗示しているようです。しばらく絵を見つめましょう。

(沈黙)

この絵は、見た瞬間にイエスの謙遜な姿をわたしたちに教えてくれるとても感動的な作品です。ただ淡々と弟子の足を洗っているイエスの姿があります。本当の愛とは、自分の目の前の人に対して心から仕えることではないでしょうか。イエスは、足を洗うことによって、愛をお示しになりました。それはイエスが父なる神との交わりの中で、その父からこの世に遣わされたこと、そして、もうすぐ父の下に帰ることが明確であったからこそ、この世の者に対してイエスの愛が示されたのでした。

足を洗ってもらった弟子たちは、皆イエスの行為に驚いています。見せかけや偽りの多いこの世にあって、イエスこそ、人を愛するとはどういうことであるのかを示してくださったのです。もしイエスが、今、ここにいらしたなら、間違いなくわたしたち一人ひとりの足を洗い手ぬぐいでぬぐってくださるでしょう。イエスとわたしのかかわりは、思った以上に深いかかわりをもっていることが分かります。十字架を前にして自分の運命を嘆くのではなく、最後まで人に仕え続けたイエスは、わたしたちの道であり、真理であり、まことの命への道をあかししてくださいました。

「道・真理・いのちの主よ」No.6 ① ② ③

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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