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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2010年11月6日


菊



   『何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
   生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、
   殺すとき、癒す時、破壊する時、建てる時、
   泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、
   抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、
   保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、
   愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。』

人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。
(コヘレトの言葉3.1~11)
 

カトリック教会では、11月を「死者の月」として、亡くなった方々を思い出し、神さまの憐れみによって、永遠のやすらぎを得ることができるよう祈りをささげる月としています。特に11月2日は、「死者の日」として記念し、亡くなったすべての人が、イエス・キリストの復活の命に与ることができるように、全世界の教会で特別なミサがささげられます。今日は、亡くなった人々のために祈りをささげましょう。

お手元の紙に、亡くなられた家族、友人、恩人など、特にお祈りしたい方のお名前をお書きください。何人でも結構です。お書きになった紙は、ローソクをささげるときに祭壇までお持ちください。

(沈黙)

それでは、祭壇にローソクをささげましょう。お名前を書いた紙は、祭壇の右はしに置いてあるかごにお入れください。そして、中央のハガキをお取りになって席にお戻りください。

祈りましょう。
いつくしみ深い父よ、今夜ここに集まったわたしたち一人ひとりが、
今、ローソクとともにささげた亡くなった人々をあなたに委ねて祈ります。
あなたのもとに召された人々が、すべての罪から清められ、
永遠の復活の命に与ることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって、
アーメン。

わたしたちは、日常生活の中でさまざまな人の死に出会います。家族や親族、友人たちなどの身近な人の死。新聞やテレビなどメディアで報道されて知る人々の死。世界のいたるところで起こっている災害や不慮の事故で亡くなっていく人々の死。死は、いつどこで、どのような形でわたしたちを訪れてくるのか、予想することはできません。わたしたちは、「死」についてどのように考えているでしょうか。怖いもの、考えたくないものとして、どこかに押しやって生きているでしょうか。

今夜のアレオパゴスの祈りの中で、いつか必ずわたしの前に、確実に訪れる死について神さまの前で考えてみる勇気を願いましょう。

旧約聖書のシラの書に次のような言葉があります。

 「人間とは何者か?その存在の意義は何か?
その行う善、その行う悪とは何か?
人の寿命は、長くて100年。
大海の中のひとしずく、砂の中の一粒のように、
永遠という時に比べれば、この寿命はわずかなものにすぎない。
このゆえに、主は、人々に対して忍耐し、
憐れみを彼らに注がれる。
主は、人間のみじめな末路を見、知っておられる。
それゆえ、豊かに贖いを与えてくださる。
人間の慈しみは、隣人にしか及ばないが、
主の慈しみは、すべての人に及ぶ。」  (シラの書18.8~13) 

また、旧約聖書の詩編では、わたしたち人間がいかにもろく、はかないものかを歌った詩があります。

   「主は、わたしたちを
   どのように造るべきかを知っておられた。
   わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。
   人の生涯は、草のよう。野の花のように咲く。
   しかし、風がその上に吹けば、消え失せ
   生えていたところを知る者もなくなる。」  (詩編103.14~16)

 

しかし、新約聖書のヨハネ福音書では、「永遠の命」という言葉が多く使われています。そして、イエスは死のかなたにある命についてはっきりと語っています。この「永遠の命」はキリスト教の教えの中心にあるものです。イエスへの信仰に生きる人は皆、永遠に生きるのです。

ヨハネ福音書からイエスの言葉を聞きましょう。

ヨハネ6.35~40、47~51

イエスは仰せになった。
「わたしが命のパンである。わたしのものに来る者は、けっして飢えることがなく、わたしを信じる者は、けっして渇くことがない。しかし、わたしが言ったように、あなたがたは、わたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしにお与えになる者は皆、わたしのもとに来る。わたしは自分のもとに来る者をけっして追い返さない。わたしが天から降ったのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行うためである。わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、わたしが、与えられたすべての者を、一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。わたしの父のみ旨は、子を見て信じる人には皆、永遠の命があり、わたしがその人を、終わりの日に復活させることである。」
 

「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者は永遠の命を持つ。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。だが、これは天から降って来たパンである。これを食べる者は死なない。このパンを食べる人は永遠に生きる。わたしは天から降ってきた生けるパンである。」

(沈黙)

人は2つの命を生きるように、この世に生を受けてきたとも言えるでしょう。『あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んだ』と言われる肉の命と、朽ちないもっと大きな命、つまり新たな神の命に至るため、自分に死んで神さまに生かしていだだくいのちです。死の向こうに何があるのか正確に知っている人は誰もいません。だだ、信仰によって知る以外に方法はないのです。たしたちに約束されている永遠の命は、復活したイエスの命に与る命の始まりでもあるのです。

ガリラヤ湖
ガリラヤ湖の日の出、撮影Eri Tanaka

ここで、燃え尽きるまで精一杯に生きた、一人の青年をご紹介しましょう。

石川正一さんは、小学生のころから「筋ジストロフィー」という重い病気とけんめいに戦って、23年の短い、しかしすばらしく満たされた人生を終えました。まだ少年だったころ彼は言っています。

   「あんな小さなクモでも 一生懸命生きているんだもの
   人間はなおさら 一生懸命生きなければならないよ」

そのころ、少年はすでに足の筋肉がまひしていて、歩くことはおろか、立つこともできなくなっていました。友だちが毎日学校に通って勉強できるのを、どんなにうらやましく思ったことか。いっしょに遊びたくても、それができません。

町に出ていこうとすると、歩道には段があるし、車があふれて洪水みたいです。駅の改札口やビルの階段は、一人ではぜったいに通れません。

そのうち、少年は自分がどのくらい生きることができるかを、知りたいと思うようになりました。ある日、お父さんとお風呂に入っていたとき、とうとう勇気を出して聞いてみたのです。

   「ねぇお父さん、自分の病気のことを 自分が何も知らないということは
   よくないことだと思うよ。だから、全部教えて。怖いから言うんじゃないよ。
   好奇心で聞くんじゃないよ。生きるということは自分を知ることだから。」

お父さんは胸いっぱいの悲しみをこらえながら、「お医者さんによればね、今のままでは、20歳までしか生きられない」と答えました。少年は、だまってしまいました。しばらくして、ぽつんとつぶやきました。「そう、……あんがい短いんだね。……そうすると、これからどう生きるかが、問題だね」

この日から、少年は燃えるような熱意をかたむけて、一日一日を精一杯生きようとしました。一本のばらを眺めても、一匹のクモを見ても、それぞれの命を一生けんめいに生きているのが、手に取るようにわかります。一生の間、自分は何をしたかが大切なのではなくて、自分をどう生かしきったかが、問題なのです。少年は、もうけっして帰っては来ない自分の一日、一時間、一分をもむだにはしませんでした。

少年にとっては、一日一日がたとえようもなくとうとい、だから、一分もむだにしないで、やれることに全力投球します。本を読んで勉強する。絵を描く、工作する、詩を作る。そして、毎日、聖書を読みました。お母さんといっしょに聖書を開き、必死でさがしました。聖書には、彼の知りたいことがすべて書かれているからです。

そうしているうちに、自分が生まれてきたのも、重い病気にかかったのも、自分がそうなりたくてなったのではないことに気づきはじめます。

神さまが、御心のままに生かしてくださっているからこそ、自分は生きている。しかも筋ジストロフィーというハンディを背負いながら、自分の人生を十分に生き抜くことこそ、神さまのお望みであると、わかってきたのです。彼は、この苦しい病気を「神さまの愛のしるし」として、受け入れたのです。この病気にかかったのは、何かの意味がある。自分にはわからないけれど、神さまは病気によって、ぼくを高めてくださる。だから、病気は神さまからの「恵み」なのだと少年は思いました。

   「ぼくはときどき、どうしてこんなに落ち着いていられるのかなぁと思う。
   教会へ行ってなかったら、しょせん人間さ。あらあらしくなっていたよ。
   神さまとの心のつながりを切りはなしたら、人間には何も残らないじゃないか・・・」
   少年が、苦しい病気に神さまの愛のしるしを見ることができたのは、神さまを信じたからでした。

少年は、ある日、陶器を作る仕事場に連れて行ってもらいました。少年は、感動しました。 "美しい陶器が完成するためには、窯の火が燃える。燃えて、燃えて、陶器を火のようにしてしまう。その火のようになろう。いいかげんなところで終わってしまってはいけない。身体が不自由だからといって、何もかも人にまかせたきり、自分では何一つ努力をしないような人間になってはいけない。

聖書を毎日読むうち、神さまが、「生きる価値を見つけなさい。そのためには、努力を惜しまずに、自分のできることに向かって、完全燃焼しなさい」こう教えてくださっているような気がしてきました。

やがて、病気は日に日に進行していきました。自分の死が間近にせまってくるのを感じて、作った詩があります。

   「長いトンネルがありまして 短いトンネルがありまして
   北の国を通り抜け 野を越え山を越え 終着駅は天国という名の駅
   到着時刻はもう間近 忘れ物を残さぬよう
   今日も一日わたしは励む 残されているわたしの仕事に」

死を前にして、苦しみがますます激しくなったとき、彼は、なぜこんなにまで苦しんで生きる努力を続けなければならないか、その意味がわかった、と言いました。それは、自分のこのような姿が人々の心に残って、役に立つためだ、と悟ったのです。

こうして石川正一さんが、燃え尽きて神さまのもとに帰ったのは、23歳のときでした。
      (サン・パウロ刊行 菊池多嘉子著『イエスさまについて行こう』 参照)

しばらく沈黙のうちに祈りましょう。

(沈黙)

『パウロ家族の祈り』p.186「死者のためにする祈り」②
     → 「祈りのひととき」 -死者のためにする祈り-

最後にヨハネ福音書の言葉を聞きましょう。

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
                     (ヨハネ12.24)

  これで今晩のアレオパゴスの祈りを終わります。


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