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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2011年5月7日


ハナグルマ



   全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
   喜び祝い、主に仕え
   喜び歌って御前に進み出よ。
   知れ、主こそ神であると。
   主はわたしたちを造られた。
   わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
   感謝の歌をうたって主の門に進み
   賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
   感謝をささげ、御名をたたえよ。
   主は恵み深く、慈しみはとこしえに
   主の真実は代々に及ぶ。
                (詩編100.1~5)

今年は、4月24日に「復活の主日」(イースター)を迎え、カトリック教会は、新しく洗礼を受けた兄弟姉妹とともに、主の復活を喜びを祝っています。キリスト教の出発点は、歴史的出来事の中にあります。イエスが、2000年前にベトレヘムで生まれ、ガリラヤで説教し、奇跡を行い、ユダヤの人々によってねたまれ、十字架につけられて死に、復活したという出来事の上に建てられています。復活は、キリスト教の中心になる出来事です。キリスト教の信仰は、復活への信仰で、イエスの復活がなければ、キリスト教は存在しません。イエスの復活は、新約聖書で4つの福音書全部に書かれていますが、実際にその瞬間に起こったことを見た人は、だれもいません。イエスの復活が事実であったことは、復活したイエスに出会った弟子たちの証言によります。人間の想像による創作でなく、弟子たちが見、聞き、触れた出来事の上にわたしたちの信仰があります。

今晩のアレオパゴスの祈りでは、ルカ福音書に書かれている、復活したイエスが、エマオに向かう弟子たちに現れたという物語をご一緒に見ていきましょう。

イエスの復活の喜をともに祝うため、わたしたちをここに集めてくださった神さまに感謝しましょう。今年のご復活は、3月に起こった巨大地震がもたらした大きな災害を身におびながら、厳しく、重く、苦しい中で迎えました。しかし、“わたしは、世に勝った”と言われるキリストが、負けないで、前進していく勇気と力を与えてくださっていると思います。この逆境のとき、人々は、忍耐し、一致し、助け合い、立ち上がるために必死で努力しています。苦しみの中にある被災された方たちのことを思い、日本中の人々が一ひとつになって、復興の道へと歩んでいくことができるよう祈りながら、ローソクを祭壇にささげましょう。

ルカによる福音書を聞きましょう。

ルカ福音書 24.13~35

ちょうどこの日、2人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、2人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。2人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、2人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で3日目になります。

ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。2人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 2人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。2人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

エマオに向かうキリストと弟子たち

場面は、エルサレムから60スタディオン離れたエマオへ行く途中です。エマオが現在のどこの村に位置するのかは論議されていて、はっきりと分かっていません。60スタディオンは、距離にすると約12キロくらいだと言われています。自分たちの希望を打ち砕かれ、挫折した2人の弟子たちが、たぶん故郷に帰ろうとしていたのでしょう。このままエルサレムにいると、イエスの弟子として捕らえられるのではないかと身の危険を感じたのかもしれません。人生の目的を失ってとぼとぼ歩いていく彼らの姿が想像できます。「2人は暗い顔をして立ち止まった」とあります。

人生には、失ったものだけに執着すると、動きが取れなくなって、いつまでも痛みの中に留まり続け、新しい可能性を切り開くことができなくなります。この2人の弟子たちの心も大きな悲しみで閉ざされていたのだと思います。イエスに対する期待が大きかっただけに、絶望してしまっていたのでしょう。弟子たちは、イエスとともに長いあいだ生活しながらも、イエスの教えを聞きながらも、人間的な尺度、人間的な目でしか理解できませんでした。

イエスは、そんな2人の弟子たちに現れます。「イエスご自身が近づいてきて、一緒に」とあるように、この2人に近づいてきたのはイエスのほうでした。イニシアティヴを取ったのは、イエスでした。「どんなことですか」と聞くイエスに、彼らは、話し始めますが、弟子たちの話しに忍耐して聞いていたイエスが、とうとう口を開きます。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と嘆き、閉ざされた心の扉を開かせようと働きかけられました。ご自分が教えられた聖書のことばをよりよく理解させ、苦しみの極みをとおって新しいいのちへの道に入られたイエスご自身の体験を語ってくださいました。エマオへの約12キロの道のりを、弟子たちはイエスのことばに耳を傾けながら歩いていきます。闇と死のどん底にある現実の中にいるときでも、闇が闇でなく、死が死でないもう一つの現実があることに気づかせてくださいました。イエスの復活は、弟子たちに新しい尺度を教えています。どんなに深い闇や十字架が襲ってきても、悲しみに終わらせるのではなく、いのちへの道を見つける目を与えられました。イエスの復活をとおしてのみ与えられるめぐみと言えます。

物語は、さらに進みます。2人の弟子たちが目指す村に近づいたとき、イエスはなおも先に行こうとされました。彼らは、もう日が傾いているからと言ってイエスを無理に引き止めます。電気も交通手段もない時代、夜の一人旅は危険だったということもありますが、イエスに対する関心度、また後になって「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」との言葉からも、どうしてもお泊めしてイエスに話を聞きたいという思いがあったことが分かります。イエスを引き止めた彼らは、イエスと一緒に食事をします。イエスがパンを裂いたとき、2人は「あっ先生だ」と気づかされました。「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した」という表現は、イエスが最後の晩さんで示されたことやパンの奇跡のことを思い出させます。イエスは、弟子たちの心の消えかけた火を再び燃え立たせました。イエスだと分かった瞬間にイエスの姿が見えなくなったことは、とても不思議なことです。

Fr.ルプニクのモザイク

2人の弟子たちは、暗くなるからとイエスを引き止めたにもかかわらず、夜の夜中にエルサレムへ戻っていきます。イエスに出会った喜ですっかり変わってしまっています。

わたしたちは、この物語をとおして一つのことを教えられます。その意味は、復活のイエスがいつもわたしたちと一緒に歩んでくださる方だということです。いつでも、復活したイエスに会うことができるからです。ですから弟子たちは、イエスの姿が見えなくても大丈夫です。実際に死を体験し復活してもう永遠に死ぬことのないいのちを持っておられるイエスが、ともにいてくださるからです。

(沈黙)

『典礼聖歌集』p.388 「ガリラヤの風かおる丘で」 ① ④

ここでデンマークに古くから伝わる民話をご紹介しましょう。

2つの鏡

悪魔はいつも混乱を起こします。そうした状況を作るために、悪魔はあるとき、特別な鏡を作らせました。この鏡に映すと、この世のすべてのいいもの、うつくしいものは小さくなり、すべての悪いもの、醜いものは大きくなるのです。悪魔はこの鏡を持って歩きまわり、これはと思う人の目の前につきつけました。そうこうするうちに、あらゆる土地のあらゆる人が世界をゆがんだ目で見て、何て醜いところだろうと思うようになってしまいました。

ところがある日のこと、悪魔はこの鏡のせいで起こったゴタゴタを考えておなかをかかえて笑いこけているうちに、鏡を取り落として粉々に砕いてしまいました。そこに嵐が吹きまくって、鏡のかけらを世界の果てにまで吹きとばしました。あるかけらは殻粒のように小さくて人々の目に入り、それからというもの、その人たちは気の毒に世の中の悪いものばかりに気がつくようになり、その一方、いいものは小さくちぢんで、ほとんど見えなくなってしまいました。

かけらのうちのあるものは長い何月の間に寄りあつまって眼鏡になりました。そうした眼鏡をかけた人は、どんなものでも正しく見ることができなくなってしまうのです。

神さまは人間の視力がこのように損なわれ、多くの人が自分のまわりのよくないものしか目に入らなくなっているのをごらんになって悲しまれました。再びすべてを正そうと、神さまは言われました。「わたしの息子はわたしの生き写しだ。息子をこの世につかわそう。彼はわたしの善と義を映しだし、わたしがこの世にどうあってほしいと思っているか、示すだろう。」

そこでイエスさまが神さまの鏡になられたのです。イエスさまは神さまの善を、どろぼうや詐欺師、この世でさげすまれている人々にまで示されました。イエスさまは病気の人、希望を失っている人の心に勇気と自信を映しだしてくださいました。悲しんでいる人に慰めを与え、不安に心がなえ衰えている人のうちに信頼の思いを映しだしてくださいました。

多くの人がイエスさまを神さまの鏡と認めて、従いました。でもある人たちは嫉妬に駆られて、神さまの愛そのものであるイエスさまを捕らえる計画を立てて殺しました。こうして彼らは神さまの鏡をこわしてしまったのです。

やがてたいへんな嵐が吹きあれました。この嵐で神さまの鏡は粉々になって世界の隅々にまで吹きとばされました。神さまの鏡のかけらは今でも世界のうちに飛び散っています。そうしたかけらがたくさんの人の目に入ったのです。そのかけらを目にやどした人たちは神さまのお造りになった世界を、再びイエスさまの目で見ることができるようになりました。

彼らは神さまが創造なさった美と善、そして神さまが愛しておいでになる人間を見て、たとえ悪いもの、醜いものが栄えるように見えても、それはいっときのことにすぎず、愛の力で征服できるのだということを悟ったです。
女子パウロ会刊行『深い知恵の話100 』

聖パウロのことばより —ローマの信徒への手紙 6.8~11)

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

『祈りの歌を風にのせ』 p.313 「主はよみがえられた」2回

主の復活の主日から復活節の50日間、毎日唱えられるアレルヤの祈りをキリストの母である聖母マリアとともにご一緒に祈りましょう。

  アレルヤの祈り

  神の母聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
  あなたに宿られた方は。アレルヤ。
  おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
  わたしたちのためにお祈りください。アレルヤ。
  聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
  主はまことに復活されました。アレルヤ。

  祈りましょう。
  神よ、あなたは御子キリストの復活によって、世界に喜をお与えになりました。
  キリストの母、聖マリアにならい、
  わたしたちも永遠のいのちの喜を得ることができますように。

  わたしたちの主イエス・キリストによって。
  アーメン。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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