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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2012年11月3日


ホトトギス



教皇ベネディクト16世は、第2バチカン公会議開催から50周年を迎える、今月の10月11日から来年の11月24日、「王であるキリスト」の祭日までを特別年、「信仰年」を定めました。

教皇は、次のように言っています。

何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時 保つ時、放つ時
裂く時、縫う時 黙する時、語る時
愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。

人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。                     (コヘレトの言葉3.1~11)
 

カトリック教会は、11月1日、諸聖人の祭日を祝います。聖人とは、キリストへの信仰を持ってこの世の旅路を歩み通し、今は天の御父のもとで永遠の報いを受けている人たちのことです。11月1日は、あの聖人この聖人と特定の人をお祝いするのではなく、名前が知られている聖人、知られていない聖人すべての聖人をお祝いします。また、諸聖人の祭日を祝った次の日、11月2日を「死者の日」として、亡くなったすべての人が、神さまの憐れみによって、永遠のやすらぎを得ることができるよう特別に祈ります。11月全体を「死者の月」として記念し、亡くなった人びとが、イエス・キリストの復活のいのちにあずかることができるようにミサがささげられます。今晩は、亡くなったすべての人のために祈りをささげましょう。

・神のもとに召されたわたしたちの家族、親族、友人、恩人のために。
・また、病気や不慮の事故、災害、戦争、自死、死刑など、さまざまな要因で亡くなられた方々のために。
そして、この機会に「死」についても、考えてみましょう。「死」について見つめることは、わたしたちが今、どのような価値観を持って生きているのかを知り、自分の人生を充実させていくための助けになるでしょう。

それでは、後ろでローソクを受け取って祭壇にささげましょう。

祈りましょう。
いつくしみ深い父よ、
今夜ここに集まったわたしたち一人ひとりの祈りを受け入れてください。あなたのもとに召された人びとが、すべての罪から清められ、永遠の復活のいのちにあずかることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

わたしたちは、日常生活の中でさまざまな人の死に出会います。家族や親族、友人たちなどの身近な人の死。新聞やテレビなどメディアで報道されて知る人びとの死。世界のいたるところで起こっている災害や不慮の事故で亡くなっていく人びとの死。死は、いつどこで、どのような形でわたしたちを訪れてくるのか、予想することはできません。わたしたちは、「死」についてどのように考えているでしょうか。怖いもの、考えたくないものとして、どこかに押しやって生きているでしょうか。

死という出来事は、例外なくどの人にも必ず訪れる事実です。人はだれでも最後は死を迎えることを知っています。しかし、現代の社会では死について本気で考えることが難しくなってきているようです。ひとりの人が死んでも、世の中は何事もなかったかのように過ぎていきます。社会はあたかも死など存在しないかのように、いのちの営みに中心を置いて、今までどおりの生活を続けていきます。

また、一昔前と違って、家庭で死を迎えるケースは減ってきています。日本では、核家族化が進んだこともあり、特に若い人たちが臨終の場に立ち会う機会も少なくなっています。

このように、わたしたちにとって、死ということは日常生活の外に、特別のこととして置かれてしまうようになりました。死について考えることは、自分がどう生きていくかという問題に直接つながっています。人間は生きたように死んでいくと言われるのもそのためでしょう。今夜のアレオパゴスの祈りの中で、死について神さまの前で考えてみる勇気を願いましょう。

新約聖書のヨハネ福音書では、「永遠のいのち」ということばが多く使われています。イエスは死のかなたにあるいのちについてはっきりと語っています。この「永遠のいのち」はキリストの教えの中心にあるものです。イエスへの信仰に生きる人は皆、永遠に生きると語ります。


天上の聖人たち
天上の聖人たち


ヨハネ福音書のイエスのことばを聞きましょう。(ヨハネ6.35~40、47~51)

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

(沈黙)

人はふたつのいのちを生きるように、この世に生を受けてきたとも言えるでしょう。『あなたがたの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んだ』と言われる肉のいのちと、朽ちないもっと大きないのち、つまり、自分に死んで新たに神によって養われて生きるいのちです。死の向こうに何があるのか知っている人はだれもいません。ただ、信仰によって知る以外に方法はないのです。わたしたちに約束されている永遠のいのちは、死んで復活されたイエスのいのちにあずかることです。永遠のいのちは、死後にいただくいのちのことではなく、イエスに従う者の生き方は、すでにこの世で、永遠のいのちを生き始めているのです。

先月10月11日から「信仰年」が始まりました。今月も信仰によって、自分のいのちをささげて、福音をあかしした殉教者たちの勇気ある生き方をたどっていきたいと思います。

2009年11月24日、長崎で「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が行われました。殉教者たちは、自分のいのちを賭けて、神さまの愛をあかしました。彼らはキリストが生き、教えた福音こそ永遠に変わらない真理であって、この世で価値があると見なされている富や名声、権力や地位ではないことを、身を持って示しました。それらをすべて失っても神さまだけが人間を救うことができると信じていました。

188殉教者の中には、15歳以下の子どもたちが30名含まれていました。「あんなに幼い子どもたちを巻き添えにして・・・・」と否定的に捉えられるかもしれません。当時のキリスト信者は、親として、この世のいのちだけでなく永遠のいのちを信じ、子どもの魂の救いを考えていたからです。いのちを棄てることが目的ではなく、いのちを棄ててでも伝えたい大切なメッセージがあったからです。幼い子どもたちも、親の信じている大事なものを意識的に感じ取っていました。親が目の前で殺されても、死を恐れず、そっと自分の首を斬られるために差し出したと報告されています。

熊本の殉教者、小笠原玄也とみや夫妻は、殉教することを知っていて、人間的に未来のない生活を強いられながらも、子どもを産み育てました。子どものいのちは、神からの授かりものであること、子どもがこの世で苦労したとしても、神さまが与える存在の喜びを味わわせるために、この世に誕生させていきました。そこには、自分たちの都合や考え方で、この状況を幸不幸とは判断しない神さまへの信仰が彼らの中で輝いていました。

小笠原みやは、次のように言っています。「棄てることのできない宗教ですので、このような事態になりました。わたしたちがこうして喜んで死ねますのは、キリシタンの信仰こそ、いのちにも替えられぬほど大切なものだからでございます」。

1636年1月30日、熊本花岡山の麓にある禅定院(ぜんしょういん)という寺院において、小笠原一家、玄也とみや、そして息子6人、娘3人、奉公人4人は、斬首され殉教しました。

(沈黙)

現代に生きる、わたしたちは、どのような生き方ができるでしょうか。殺されるだけが殉教ではなく、自分の苦しみや人からの侮辱を受け入れること、孤独に耐えること、ゆるすこと、他者のために祈ること、奉仕すること、このような生き方を目指し、愛のあかとなるなら、同じように現代においての殉教と言えるのではないでしょうか。

死者のためにする祈り   『パウロ家族の祈り』より

   イエス・キリスト、栄光の王である主、
   聖母マリアとすべての聖人の取り次ぎによって、
   神を信じて亡くなった人びとを、復活の栄光にあずからせてください。
   大天使ミカエルの取り次ぎによって、
   アブラハムとその子孫に約束された聖なる光に、彼らを導いてください。
   主よ、彼らのためにささげる賛美の祈りを受け納め、
   彼らを永遠の喜びに迎え入れてください。
     主よ、永遠の安息を彼らに与え、不滅の光で彼らを照らしてください。
     彼らが安らかにいこいますように。アーメン。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。(ヨハネ12.24)

これで、今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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