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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2013年8月3日


菊芋擬



愛は忍耐強い。愛は情け深い。
ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
                  (1コリント 13.4-8)

8月、日本のカトリック教会は、毎年、平和のために祈ります。特に、8月6日の広島原爆投下の日から、9日の長崎原爆投下の日を経て、太平洋戦争敗戦に至る15日までの10日間を『日本カトリック平和旬間』と定め、平和のために祈り、平和について学び、行動する期間としています。

東京教区では、今年も、平和旬間の期間中、8月6日から15日まで、参加者によって途切れることなく祈りをつないでゆく「祈りのリレー」が行われます。その他、「平和巡礼ウォーク」、「平和を願うミサ」、「講演会」、「映画会」、「交流会」など平和のための企画が数多く計画されています。

平和の源であるキリストが、ここで祈るわたしたちの平和への願いを、聞き入れ、わたしたち自身も平和のために働く道具となれるよう祈りましょう。

今晩の「アレオパゴスの祈り」は、今月14日に記念日を祝う、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父を取り上げたいと思います。彼は、第2次世界大戦のさなかに、強制収容所に入れられ、多くの困難を耐え忍び、死刑を言い渡された一人の男性の身代わりとなって、命をささげました。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)このイエスさまの言葉を生きられた、コルベ神父の生涯をたどっていきたいと思います。

後ろでローソクを受け取り、今晩は、特に世界の平和のために意向を込めて、祭壇にささげましょう。祭壇の上のハガキをお取りになって席にお戻りください。

コルベ神父は、1894年1月8日、織物職人の家庭の5人兄弟の次男として、ポーランドに生まれました。下の二人の兄弟は、子どものときに亡くなったので、成長したのは、上の3人だけでした。コルベ神父の幼少の名前は、ライモンドと言いました。1772年以来、ポーランドは、ロシア、プロイセン、オーストリアの三つの国に支配されます。ポーランド人は、自分の国の言葉で話すことが赦されていませんでした。ポーランドという国は、地図からも消されていたのです。このような時代にコルベ神父は生まれ育ちました。

彼が10歳のときに起こった出来事をご紹介しましょう。

ライモンドは、激しいいたずらをしては、母親を困らせていました。母親は、彼をしかりながら、「本当にしょうのない子だね。いたずらばかりして。わたしがしからないと、お前は一体、どんな子になってしまうのかね。」とため息が出るほどでした。この言葉がきっかけで、ライモンドは、変わっていきました。

ライモンドは、たびたび家の片隅にある小さな祭壇の前で、だれにも気づかれないように、泣きながら祈っていました。この様子に気づいた母親は、ライモンドが病気になってしまったのではないかと心配でたまらなくなりました。「何かあったのかい。何でもお母さんに話さないといけないよ。」母親に尋ねられて、彼は、泣きだしました。そして、だれにも言わなかった秘密を打ち明けたのです。

「お母さんにしかられたあの日、本当に僕は、どうなるんだろうって悲しくなったんだ。それで、聖マテウス教会に行って、神さまに、僕がどんなになるのか、教えてくださいって、一生懸命お祈りしたんだ。そしたら、マリアさまが現れて、両手に白い冠と、赤い冠を持って、僕に『どちらがほしいですか』と聞かれたんだ。僕は、『二つともほしいです。』を答えたら、マリアさまは、とても優しい目で、じっと僕を見つめていたんだ。でもいつのまにか見えなくなってしまったよ。白は純潔のしるし、赤は命をささげる殉教のしるしだって、僕にはすぐにわかったよ。」

 

母親は、声も出ないほど驚きました。そして、この秘密をだれにも言わず、自分一人の心にしまったおこうと決めたのです。「まだ小学生にすぎない息子が、白と赤の冠を二つともほしいとマリアさまにお願いしてしまった。この子は、修道院に入って一生をイエスさまにおささげするに違いない。そればかりか、命をささげて殉教するなんて・・。」母親はこのことを思うたびに、胸がいっぱいになりました。

 

ライモンドは、13歳のとき、兄のフランシスコと一緒にオーストリアの占領地域にあるルヴォフの「フランシスコ会」の神学校に入りました。

ここで、もう一つのエピソードをご紹介しましょう。

1906年プロセインに占領されている町の小学校で、ストライキが起きました。ポーランド人の生徒たちが、自分の国の言葉ではなく、ドイツ語で勉強するように命令されたことに反抗して立ちあがったのです。ライモンドは、胸に熱い血が流れるのを感じました。愛する祖国ポーランドが三つに分けられ、三つの国に支配されているのを黙って見ていることはできなくなりました。地図から消され、ポーランド語を口にするのさえ、ゆるされず、いじめられ、自由を奪われている祖国のために、兵士となって戦うことが神さまの望みではないかと思うようになりました。ライモンドは、フランシスコ会を出ようと決めました。

決心を実行に移そうと考えていたときのことでした。受付のブラザーが、ライモンドを探しにきました。母親が面会に来たと言うのです。ライモンドはとても驚きました。なぜ今頃、前ぶれもなしに訪ねてきたのだろう。この決心を知らないはずなのに・・・そう思いながら面会室に入っていきました。母親との久しぶりの再会を喜びあいました。

母の話によると、弟のヨゼフも二人の兄たちと同じように修道者になる道を選んだと言うのでした。そして、3人の息子たちのこの決心に安心した両親は、それぞれに、今からの半生をもともと希望していた修道院で暮らすことにしたということでした。父親は、クラコフのフランシスコ会に、母親は、ルヴォフのベネディクト会に入れてもらうことになったと喜びに輝いて話してくれたのです。

ライモンドは黙って頭をたれていました。そして何も言わず母親を優しく送りだしました。ライモンドは、すぐにわかりました。自分が修道院を去ることを、神さまはお望みにならないということを。神さまが、そのことを告げるために母親を遣わしてくださったということをはっきりと悟ったのでした。そして、ライモンドの心の迷いは消え、神さまにとらえられたと感じました。

それから、ローマの大学に留学して7年間哲学と神学を学び24歳で司祭となって帰国します。しかし、帰国後、肺結核で療養生活を強いられます。そのとき彼は、『聖母の騎士』の雑誌の発行を思いつきます。彼はローマで勉学中に「無原罪の聖母の騎士会」を創立しました。この会は、聖母マリアの保護の下に、武器を持たずに愛を持って戦い、祈りの業を行うことによって人々の救いに尽くすことを目的としました。

1922年最初のポーランド語版『無原罪の聖母の騎士』誌が発行されました。制作費は信者の献金、執筆者はコルベ神父一人だけでした。この雑誌の発行は、ポーランド・リトアニア国境近くのグロドノの修道院で行われました。次第に、彼の志に共鳴した修道志願者が集まり始め、雑誌の発行部数も伸びていきました。そこで、ポーランド貴族ルベツキー公爵から寄付されたワルシャワ付近のテレシン村に修道院を新しく建設し、ポーランド語で「汚れなき聖母の場所」という意味のニエポカラヌフと命名しました。新しい修道院と書面による宣教の準備ができると、コルベ神父は日本への宣教を決意しました。彼は、以前に旅行していたとき、汽車の中で、何人かの日本人学生に出会い、そのときから、日本に行って、イエスさまとマリアさまを知らせたいという望みを持っていました。

そして、ついに1930年、36歳のとき、4人の修道士とともに、迫害に耐え抜いて人々が信仰の火を消さなかった長崎の町に上陸しました。ここで、彼は日本語の『無原罪聖母の騎士』という雑誌を発行することができました。彼は6年間日本に滞在し、『無原罪聖母の騎士』誌の発行と宣教に専念した後、1936年ポーランドに帰国しました。

コルベ神父
コルベ神父


(沈黙)

1939年、第2次世界大戦が始まり、8月末ポーランドはドイツ軍に占領され、ニエポカラヌフ修道院も荒らされてしまいます。印刷機械は没収され神父や修道士は収容所に送られました。しかし、そのときは、2か月後釈放されます。院長を務めていたコルベ神父は、またニエポカラヌフに戻り、1年後に再び『無原罪の聖母の騎士』誌を発行します。しかし、ナチスは、彼の説くカトリックの教えとナチスの思想は相反するとして、コルベ神父をブラックリストに載せていました。

1941年2月17日の朝のことです。突然、ドイツの憲兵、ゲシュタポがニエポカラヌフの修道院に姿を現わしました。5人の神父たちが呼び出され、ワルシャワの収容所に連れていかれました。何百人と詰め込められた貨車の中で多くの人々が不安と恐怖におののいているとき、人々を励ますためにコルベ神父は小さな声で賛美歌を歌われ、やがて歌声は次第に広がり大合唱となっていきました。

3か月後の1941年5月29日、ついに彼らは、南ポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所に送られました。収容所での生活は、過酷なものでした。一人当たりの場所は、80センチ、奥行きは人間の身長ほどで、幅はわずか20センチです。ここに押し込められた人たちは、飢えと寒さにさいなまれ、激しい労働は、銃やむちでたたかれ、はずかしめられ、動物のように取り扱われる毎日でした。最後は銃殺刑か餓死刑にされてしまいます。

コルベ神父は、「どんな苦しみにも意味がある。戦争という、決してあってはならない状態の中でも、真剣に生きていかなければならない。苦しみや痛みが大きくなればなるほど、イエスさまとマリアさまにささげ、敵をも愛さなければならない。」とすべてを受け入れました。

1941年の夏のある日のことです。収容所の中で緊急事態が起こりました。その出来事を聞きましょう。

囚人たちの一人が脱走したのです。捜索しても脱走者は見つかりません。このまま見つからないと、連帯責任として、見せしめのために同じ班の中の10人が罰として、餓死室で処刑されることになっていました。翌朝、囚人は点呼を取り整列させられ、そのままの姿勢で待機させられました。姿勢を崩すと監視兵が容赦なく殴ります。罰として、炎天下で食物も水も与えられませんでした。疲労と乾きで倒れた囚人は、監視兵によりゴミ捨て場に投げ込まれてしまいます。午後3時ごろわずかの昼食と休憩が与えられましたが、再び直立不動の姿勢を強いられます。しかし、ついに脱走者は見つかりませんでした。収容所所長は無差別に10人を選び餓死刑に処すと宣言しました。息詰る時間が流れ、10人が選ばれ、その中に、突然妻子を思って泣き崩れた男がいました。ポーランド軍曹のフランシスコ・ガイオニチェックという人です。彼はナチスのポーランド占領に抵抗するゲリラ活動で逮捕されていた人でした。

そのとき、囚人の中から一人の男が所長の前に進み出てきました。所長は銃を突きつけ「何の用だ。このポーランド人め」と怒鳴り声をあげました。しかし、男は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で「お願いしたいことがあります」と申し出たのです。所長が「お前は何者だ」と問うと、その男は「カトリックの司祭です」と答え、そして静かに「自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです」。と言いました。所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出ませんでした。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人は今までに見たことがありません。その場のすべての者は呆然となりました。しばらくして所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加え、ガイオニチェックを元の列に戻しました。受刑者名簿には、コルベ神父の囚人番号の「16670」と書き入れられました。一瞬の出来事でした。

コルベ神父は祈りながら、他の9人と共に死の地下室と呼ばれるところに連れていかれました。裸にされ、この日から、彼らには、一滴の水も与えられず、毎日、一人、また一人と死んでいきました。のちに、このときの目撃者で収容所から生還した人々は、この自己犠牲に深い感動と尊敬の念を引き起こされたと語っています。死の地下室は生きて出ることのできない場所でした。水一滴も与えられず、そこからは絶えず叫びやうめき声が響いていました。ところが、コルベ神父が入れられたときからは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえ、他の部屋の囚人も一緒に祈り、賛美歌を歌っていました。コルベ神父はコンクリートの床にひざまずき、やがてその祈りと歌声は隣の牢の人々にも広がっていったそうです。

ナチス兵を見るコルベ神父の目には憎しみはなく、そのナチス兵たちのためにも祈り、牢の管理人のボルゴヴィツ氏は、そんな牢内が厳かな聖堂のように感じられコルベ神父の澄んだ目は生きているキリストのようであったと証言しています。彼は、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送り、死の地下室を聖堂に変えたのです。2週間後、彼を含めて4人が生きていました。彼らは死を早めるためにフェノール注射を打たれました。コルベ神父は注射のとき、自ら腕を差し出したと言われています。

青年期から重い肺結核を患っていた病弱なコルベ神父なのに、これは最後の一人をも安らかに天国へ送るのが務めと考えたコルベ神父の意志と使命感からくる奇跡だったのでしょうか。最期にマリアさまの名を静かに呼び、自分のためでなく他者のために生きられた生涯を閉じられました。人々の罪を背負い裸で十字架にかけられたキリストの姿が、コルベ神父と重なります。

8月14日、聖母被昇天祭の前日、コルベ神父は永遠の眠りにつきました。47歳でした。亡くなったとき、彼の顔は輝いていたと言われています。一人の神父が他人の身代わりになって死んだという噂は収容所に広まり、戦後、世界の人々に語り伝えられていきました。

(沈黙)

1982年10月17日、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、教皇ヨハネ・パウロ2世によって聖人の列に加えられました。教皇は彼のことを「愛の殉教者」と呼んでいます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)とキリストは語りました。コルベ神父は文字通りこの言葉を実行しました。彼は自分が身代わりとなることで一人の命を救っただけでなく、他の受刑者と苦しみを共にすることを選びました。彼は最期まで、見捨てられ絶望した人々の友でした。そして、彼の名は永遠に全世界の人々に記憶されることになりました。

コルベ神父によって、命を助けられたガイオニチェク氏は、1995年に93歳で亡くなるまで、コルベ神父の愛に感謝し、その崇高な行為を人々に伝えることが使命と考え世界各地で講演し続けました。

「わたしと代わられたその日、コルベ神父さまは残されるわたしたちに何もおっしゃらず、ただ優しい笑顔でうなずいてお別れをされただけでした。神父さまは『安心しなさい』と言っているようで、顔も輝いているようでした。コルベ神父さまは、わたし一人のためだけでなく、多くの人々の心を救われたのです。」

このような非人間的な環境の中にあっても人を愛し、人を赦すという美しい行為を示され、命をかけて平和の道具となられたコルベ神父は、今も天国からその生き方と限りない愛で皆を励ましてくださっているでしょう。

コルベ神父の母親が、自分の息子が、幼いとき、マリアさまに、白と赤の冠が「二つともほしい」と願った出来事を人に話したのは、彼が殉教した後のことでした。

コルベ神父の遺体は、焼却炉で焼かれ骨を撒(ま)かれてしまったので、お墓はありません。生前の彼は、セルギウス修道士に「わたしが死んだら、わたしのことはすっかり忘れてください。汚れなき聖母のことだけを覚えてください」と何度もおっしゃっていたそうです。そしてまた次のような言葉も残しておられます。

「わたしが、汚れなき聖母のために塵にされ、わたしの灰が風で世界中に吹き飛ばされて何も残らなくなったとき、そのときこそ、わたしの汚れなき聖母に対する愛はまっとうされるでしょう」

『祈りの歌を風にのせ』p.20 「キリストの平和」

コルベ神父は、世界の平和を願う中で、愛と祈りこそが平和を実現できると心から信じ、武力によらない平和への道を貫かれました。今も、暴力や対立の中で傷つけあっている世界のために祈りましょう。複雑な現代社会に生きるわたしたちが、心からの対話をとおして互いの理解と協力を深め、偏見や誤解を打ち破り、真の平和を実現することができますように。お手元の平和のための祈り2013をご一緒に唱えましょう。


  平和のための祈り 2013

  平和の源である神よ、
  あなたのひとり子イエスは、
  「剣(つるぎ)を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました。
  わたしたちを武力によらない平和への道に導いてください。
  どの国の、どんな人をも尊重する心を持つことができますように。
  自分たちの国の利益だけを願うのではなく、
  周囲の国々との相互理解を求め続けることができますように。
  人権と平和を大切にする社会の実現のため、
  祈りのうちに行動することができますように。
  わたしたちの主イエス・キリストによって。
  アーメン。

    カトリック東京教区 平和旬間委員会

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。




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