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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2017年12月 2日


 修道院の庭


今年最後の月となりました。教会の暦では、12月2日の日曜日から、救い主の誕生を待ち望む「待降節」が始まります。キリスト者が少ない日本でも、クリスマスは、家族、友人で集まり、いっしょに時間を過ごす人が大勢います。人びとがこの機会に、幼子イエスと出会い、いつくしみ深い神様の愛を知ることができますように、恵みを求めて祈りましょう。

わたしたち一人ひとりが心に抱いている意向、祈りを必要としている人びとを神様の御手にゆだねて、しばらく思い起こしましょう。

(沈黙)

お祈りしたい意向を心の中にたずさえて、ローソクをささげましょう。ローソクを受け取り、祭壇にささげ、席にお戻りください

『カトリック聖歌集』 No.103「あわれみの神」① ②

12月2日のミサの中で朗読される「マルコ福音書」13.33~37 を聞きましょう。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。

森一弘司教の解説を聞きましょう。
   (『日曜日の説教集B年 人の思いをこえて』女子パウロ会より)

待降節第1主日で朗読される3つの聖書の箇所は、いずれも来たるべき救い主との出会いを、目を覚まして待つようにすすめるものです。特に、マルコ福音書が、目を覚ましていることを強調しています。「目を覚ましていなさい」という呼びかけが4回もありますが、何に目を覚ましていなさいというのでしょうか。
主人は、僕(しもべ)に仕事を割り当て、門番にも注意のことばを与えて旅立ちます。しかし、いつ戻るか、夕方か、夜中か、朝か、僕たちには分かりません。主人は必ず戻ってくる。しかし、その時は分からないのです。
「その日」「その時」という表現は、聖書によく出てきます。これは、「救いの時」のことです。天の御父がわたしたちに救いの手を差し伸べられる時です。厚い黒雲で覆われた天を開いて、御父が恵みの雨を降り注いでくださる時です。「その時」、人びとの涙はぬぐわれ、苦しみは去り、罪の汚れは清められ、新しい生命の輝きに包まれます。
そうした救いの時がやって来るという確信は、旧約の人びとの心に深く焼き付いていました。どんな絶望的な状況に追いやられても、その確信だけは失うことがありませんでした。自分たちの罪がいかに大きくても、神殿が破壊され、遠い異郷の地に流されても、救いの時が訪れるという確信は、イスラエルの人びとの心の中から失われることがありませんでした。それは不思議なことです。
しかしもまた、どんなに待たされようとも、その確信を失うことはありませんでした。その希望が自分たちの世代で叶えられない時は、その確信を次の世代に伝えていきました。こうして、メシアが訪れるという確信は、いつの間にか2000年の歳月の希望となったのです。

イスラエルの人びとは、苦しみのうちにあっても、天の御父が救いの手を差し伸べてくださる「救いの時」が来るのを確信し、希望を持って待ち続けました。そのことを思い起こしながら、しばらく沈黙のうちに、祈りましょう。

(沈黙)

『パウロ家族の祈り』p.323、ごいっしょに唱えましょう。
   父と子と聖霊である唯一、三位の神は賛美されますように。
   罪と誤りのうちにさまよう人類のそば近くに、いつもあなたはおられ、
   道を示し、希望を与えてくださいました。
   律法はモーセをとおして示され、 恵みとまことは救い主キリストをとおして与えられました(ヨハネ1.17参照)
     天のいと高きところには神に栄光、善意の人びとに平和。
     道・真理・生命である師イエス、わたしたちをあわれんでください。
     使徒の女王聖マリア、わたしたちのために祈ってください。

 聖堂内


森司教様の解説の続きを聞きましょう。

2000年の歴史に渡って受け継がれてきた確信。その間、希望が裏切られるような絶望的な状況を、幾たびも体験しなければならなかったでしょうが、それでも確信を失わなかった。それはどうしてなのでしょうか。どこにその確信の根拠があったのでしょうか。
このなぞの答えは、待降節第1主日の第1朗読、イザヤ書の中に見ることができます。この箇所では、神が「父」と呼ばれています。

「神よ、あなたはわたしたちの父」。
「わたしたちはあなたに創られた。わたしたちは皆、あなたの手の業」。

 神が父であるということ、ここに希望の根拠があるのです。
 天地創造は、万物、特に人間に生命を与える神の、父としての行為です。もし、父であるならば、子どもとの間に、切ることのできない関係が誕生します。父であるならば、子どもがどんなにひどいことをしても、子どもを見捨てることができなくなります。親は、子の幸福を願って、働き続けるのです。
 イスラエルの人びとは、自分たちの存在が罪と切り離しては考えられないような状況にあることを知った時、心の清さ、倫理的正しさを土台にして、神の前に出ることができないと分かったのです。「立派に生きていますから、律法に忠実ですから、救ってください」とは言えない事実を体験します。それどころか、見捨てられて当然かもしれないような、醜いことをやってきている自分たちの姿を見いだします。
 しかも神は自分たちを見捨てない、どんなに罪に汚れても、どんなにひどいことをしても、神との関係は絶対に切れないという「確かさ」を神の中に見たのです。そこからまた、希望をくみ取ってきたのです。
 目を覚ましているということ、それは、神が父であるという信仰を生きるようにとの促しに気づくことです。
 どんなにひどい苦しみが訪れ、絶望の中に落とされようが、闇の中に、父としての神の愛の「確かさ」を見つめ、そこから希望をくみ取り、未来に向かって明るく生きるようにという招きが、目を覚ましていなさいという呼びかけの中にあるのです。

聖パウロは、フィリピの信徒への手紙3章5~6節で、自らのことを次のように言っています。「生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属す、ヘブライ人の中のヘブライ人であり、律法に関してはファリサイ派の一員、律法の義については非のうちどころのない者だった」。しかし、その彼も、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7.21、24)と言わざるを得ない自分の内面を体験していました。救いは、イエスの死と復活によって与えられる、御父からの無償の恵みです。沈黙のうちに、しばらくふり返りましょう。

『パウロ家族の祈り』p.248、「三位一体への祈り」を唱えましょう。
   父と子と聖霊の三位の神よ、
   教会のうちに、またわたしたちのうちに働いておられるあなたを礼拝し、
   愛と感謝をささげます。
   聖母マリアのみ手をとおして、わたしのすべてを、今もいつも永遠に、
   あなたに供え、ゆだね、ささげます。
   天の父よ、子としてわたしをあなたに供え、ゆだね、ささげます。
   師イエスよ、兄弟姉妹、弟子としてわたしをあなたに供え、
   ゆだね、ささげます。
   聖霊よ、聖別奉献されるための生きた神殿として、
   わたしをあなたに供え、ゆだね、ささげます。
   教会の母でありわたしの母であるマリア、
   あなたは三位一体の神のうちにおられます。
   どうかわたしの全生涯が「父と子と聖霊の栄光」となるよう、
   典礼と秘跡をとおして、三位一体の神との親しい交わりを
   深めていくことができるようにしてください。アーメン。

この祈りの時間にいただいた恵みを沈黙のうちに感謝しましょう。

(沈黙)

救い主の到来は、マリアの「はい」ということばによって、実現しました。12月8日は、「無原罪の聖マリア」の祭日です。救い主の母、そしてわたしたちの母となられたマリアとともにこの待降節をよく過ごすことができますようにと願って、歌いましょう。

『カトリック聖歌集』No.334 「きよきおとめとて」① ②

祈りましょう。
恵み豊かな父よ、世界が闇に覆われているようであっても、あなたはまことの光キリストによって、世界を照らしてくださいます。聖ヨセフ、聖マリアとともに御子の誕生を待ち望むわたしたちが、あなたの恵みに強められ、兄弟姉妹たちに救い主の誕生の喜びを伝える者となりますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。



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