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教会カレンダー

A年 四旬節第3主日

第1朗読 出エジプト記 17章3~7節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節

福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節

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今日の典礼は、人間が生来もっている「渇き」を、どういやすことができるかを示しています。

A年の四旬節の朗読は、特に洗礼志願者のために考えられており、洗礼志願者の洗礼への決断を促すために適した朗読箇所が選ばれています。

四旬節第3主日から第5主日の典礼は、ことに洗礼志願者のための典礼といわれ、洗礼の入門式と志願式をすでに受けた人たちのために、清めと照らしを祈り求めます。

そのためもあって今日の典礼では、“水”のテーマが取り扱われています。“水”は、人を清めるもの、人の渇きをいやすものとして今日の朗読では強調されています。

また洗礼志願者だけでなく、今日の典礼を通じて、一人ひとりが清められ、聖霊に照らされて救い主イエス・キリストを深く知るようにとも招かれています。

この日の意向をこめて今日は洗礼志願者のために祈ると共に、私たちの志をもあらたにする日として過ごしてはいかがですか。

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第1朗読では、エジプト脱出後、荒れ野でイスラエルの民がどのように渇きをいやしたかが、語られます。

モーセが岩を打って水を出した出来事は、聖書でたびたび言及されています。
 今日、読まれる出エジプト記の他に、民数記、申命記、詩編、知恵の書、イザヤ書などです。

出エジプト記17章は“ヤーヴェ伝承”、“エロヒム伝承”の混じったものですが、民数記(20章)は“祭司伝承”です。双方読み比べてみるといいでしょう。

エジプトを脱出したイスラエルの民を待っていたのは、厳しい荒れ野、砂漠だったのです。

民の荒れ野の旅は、飢えの体験(16章)、渇きの体験(今日の箇所)、戦争の体験(今日の朗読の続き)であり、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」という信仰の試練として、叙述されています。

モーセは主に叫び、祈り、水の奇跡が行われ、人々はいやされます。水はまさにいのちのシンボルです。

荒れ野、精神の荒れ野の中で人々は渇きます。神のたまもの、救いの語りかけに渇く者でありたいものです。この渇きに神はいやしの恵みを与えてくださり、神の民は旅を歩み続けることができます。

人は飢え、渇く存在であることを感じていますか。

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第2朗読で読まれるのは、使徒パウロのローマの信徒への手紙です。

「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とパウロは言います。

諸国民の使徒とされたパウロは、ローマの信徒にも聖霊のたまものを分かち合い、彼らを力づけたいと願っていました。パウロは、私たちの心に与えられる聖霊について語ります。

洗礼志願者も心に聖霊を注がれ、失望することのない希望、「神の栄光にあずかる希望」が与えられます。

人々の心の奥底にある渇きをいやし、信仰と希望に根ざした愛、神からいただく愛を渇き求めて受け取るのです。

味わい深い今日のパウロの手紙を反芻し、味わう祈りの日としてはいかがですか。

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今日の福音では、サマリアの女性とイエスの出会いが描写されています。イエスが何者であるかを啓示された今日の物語は、ヨハネ福音書の中でも最も美しいものとされている箇所です。

サマリアはイエスの時代、ユダヤ人からは差別された地方でした。そこをイエスは通過されます。旅に疲れたイエスは、井戸端に座り、水を汲みにきたサマリアの女性に、「水を飲ませてください」と乞われます。

ここから、サマリアの女性とイエスとの出会いがはじまります。この女性はイエスと会話を交わすうちに、自分と話している男性がメシア(キリスト)であると気づかされます。

この女性の生涯にとって、イエスとの出会いに勝るすばらしい出会い、恵みとなる出会いはなかったのではないでしょうか。

イエスがこの女性にいわれた「もしあなたが、神の賜物を知っているなら」というみ言葉、また「あなたと会話しているのが だれであるか知っていたなら」とのみ言葉は、今日も私たちの心に響きます。

今、あなたと話をしているこの私がメシア(キリスト)である、と今日も言ってくださる方を信じ、聖書を読んでみられてはいかがですか。

水を汲みにきたサマリアの女性がイエスに出会って信仰に導かれるプロセスは、洗礼志願者の心の状態によく似ているといえるでしょう。

水はいのちの源として、人の深いところまで浸透し、活かします。このように教会もこの水によって活かされているのです。

祈り

救いの源である神よ、
  あなたは飢え渇くすべての人をいやすために
  ひとり子イエスを遣わしてくださいました。
  わたしたちが疲れ、渇き、喜びと信頼を見失うとき、
  いのちの水でわたしたちを潤し、
  立ち上がらせてください。
   集会祈願より

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第1朗読 出エジプト記 17章3~7節

しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。
わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」

モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。
彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、

主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。
また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。

見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。
あなたはその岩を打て。
そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。

彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。
イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、
モーセと争い、主を試したからである。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、
定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。
善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、
シカルというサマリアの町に来られた。

そこにはヤコブの井戸があった。
イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。
正午ごろのことである。

サマリアの女が水をくみに来た。
イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、
どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。
ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

イエスは答えて言われた。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、
また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、
あなたの方からその人に頼み、
その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

女は言った。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。
どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。

あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。
ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、
彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

イエスは答えて言われた。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

女は言った。
「主よ、渇くことがないように、
また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、

女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。
イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。

あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。
あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。

わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、
あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。
あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

あなたがたは知らないものを礼拝しているが、
わたしたちは知っているものを礼拝している。
救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
今がその時である。
なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

神は霊である。
だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

女が言った。
「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

イエスは言われた。
「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、
イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。
しかし、「何か御用ですか」とか、
「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。

女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。

「さあ、見に来てください。
わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。
もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、

イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。

弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。

イエスは言われた。
「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、
その業を成し遂げることである。

あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。
わたしは言っておく。
目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、

刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。
こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。

そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。

あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、
わたしはあなたがたを遣わした。
他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

さて、その町の多くのサマリア人は、
「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と
証言した女の言葉によって、イエスを信じた。

そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、
自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。
イエスは、二日間そこに滞在された。

そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。

彼らは女に言った。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
わたしたちは自分で聞いて、
この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

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