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教会カレンダー

A年 四旬節第4主日

第1朗読 サムエル記上 16章1b、6~7、10~13a節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章8~14節

福音朗読 ヨハネによる福音書 9章1~41節

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典礼は、先週に引き続き、洗礼志願者のために清めと照らしを祈ります。今日、洗礼志願者は、神の霊が注がれたしるしとして、司式者によって頭に手をおかれます。

洗礼志願者がいる教会ではそのための典礼が行われますが、洗礼志願者がいなくても彼らのために特別に祈るように、教会は招きます。

こうして、教会は洗礼志願者と共に歩みながら、主の過ぎ越しを祝う準備を深めていきます。

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今日の共同祈願の最後には「解放を求める祈り」が用いられます。
共に祈ってまいりましょう。

光の源である神よ、
あなたは御子キリストの死と復活によって、
いつわりと憎しみのやみを破り、
真理と愛の光をわたしたちの上に注いでくださいました。
あなたに選ばれた洗礼志願者がやみから光に移り。
暗やみの力から解放されて、
いつも光の子として歩むことができますように。

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今日の第1朗読は、サムエル記からで、ダビデの第1回の塗油についての記事です。

イスラエルの初代の王サウルが神に背いたため、預言者サムエルがサウルに代わる一人の王を探しにいくところが語られています。

羊飼いの一人の少年ダビデが、油を注がれ、将来の王と定められます。

油注がれた「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」と今日の朗読は結んでいます。ダビデは、主の霊によって変えられていきます。この主の霊の降ることを願い、新約の教会も油を用います。

油は、キリスト教の秘跡において、神の霊を授けるシンボルとして用いられるようになります。

油を注ぐとき、神の霊がダビデの上に降ったということを思い起こしながら、教会は今も教会の上に神の霊が降ることを祈ります。

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第2朗読は、使徒パウロのエフェソの信徒への手紙が読まれます。パウロは、洗礼によってもたらされる闇から光への移行を述べます。

彼は、かつて自分のダマスコ途上での復活した主キリストとの出会いを思い起こして、イエス・キリストが光であることを、書いているのかもしれません。

14節にある「眠りについている者、起きよ。……」は、初代教会の最も古い信仰の歌で、洗礼式で歌われていたものです。当時は夜を徹して祈り、朗読を聞きながら人々は賛美と喜びに満ちあふれていたということです。

洗礼は、目を覚ますこと、照らし出されることであり、キリストはまさに“光”であり、照らす方です。

「キリストがあなたを照らし」輝かします。この短い言葉を射祷のように今日一日祈ってみるのはどうでしょうか。

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今日の福音は、目の見えない人が「世の光」であるイエス・キリストによって、目を開かれる出来事を伝えています。

ヨハネによる福音書には、「過ぎ越し」についての記事が多く書かれていますが、今日の話もイエスを受け入れることにより、光の世界に移された人の新しい出エジプトを暗示していると言われています。

今日登場する目を開けられた人は、イエスに敵対するファリザイ派の人々の前で、イエスによりいやされたことを宣言したため、ユダヤの会堂から追い出されます。

この人をイエスはわざわざ探しだし、話しかけて、「主よ、信じます」という信仰告白にまで導かれます

この目が見えなかった人は、見えるようになり、心も照らされて、「あの方は預言者です」と言い、「あの方は神のもとから来られた」と言い、最後には「その方を信じたい」と言って、「主よ、信じます」と宣言します。

この信仰告白に導かれるプロセスを、教会は洗礼志願者と共に歩み、主の過ぎ越しを祝う準備をしていくのです。

今日、「神よ、私たちの目を開いてください」との祈りを度々くり返しましょう。

祈り

聖なる父よ、
  あなたは御子の苦しみと死によって、
  ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。
  キリストを信じる人々が、
  信仰と愛に満たされ、
  主の過越を迎えることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 サムエル記上 16章1b、6~7、10~13a節

主はサムエルに言われた。
「角に油を満たして出かけなさい。
あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。
わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」

彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、
彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。

しかし、主はサムエルに言われた。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。
人間が見るようには見ない。
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。
「主はこれらの者をお選びにならない。」

サムエルはエッサイに尋ねた。
「あなたの息子はこれだけですか。」
「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、
サムエルは言った。
「人をやって、彼を連れて来させてください。
その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」

エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。
彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。
主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。
その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
サムエルは立ってラマに帰った。

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第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章8~14節

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。
光の子として歩みなさい。

――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――

何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。

実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。

しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。

明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

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福音朗読 ヨハネによる福音書 9章1~41節

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。
本人ですか。それとも、両親ですか。」

イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。

わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、
まだ日のあるうちに行わねばならない。
だれも働くことのできない夜が来る。

わたしは、世にいる間、世の光である。」

こう言ってから、イエスは地面に唾をし、
唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って
洗いなさい」と言われた。
そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、
「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。

そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、

彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、
『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。
そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。
彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。
そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、
神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、
「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」
と言う者もいた。
こうして、彼らの間で意見が分かれた。

そこで、人々は盲人であった人に再び言った。
「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」
彼は「あの方は預言者です」と言った。

それでも、ユダヤ人たちはこの人について、
盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。
ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。

「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。
それが、どうして今は目が見えるのか。」

両親は答えて言った。
「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。

しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。
だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。
本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。
ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、
会堂から追放すると決めていたのである。

両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。
「神の前で正直に答えなさい。
わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。
ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、
今は見えるということです。」

すると、彼らは言った。
「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

彼は答えた。
「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。
なぜまた、聞こうとなさるのですか。
あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」

そこで、彼らはののしって言った。
「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。

我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、
あの者がどこから来たのかは知らない。」

彼は答えて言った。
「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。
あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。

神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。
しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。

生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、
これまで一度も聞いたことがありません。

あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」
と言い返し、彼を外に追い出した。

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。
そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

彼は答えて言った。
「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

イエスは言われた。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。
こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、
「我々も見えないということか」と言った。

イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。
しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。
だから、あなたたちの罪は残る。」

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