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教会カレンダー

B年 年間第11主日

第1朗読 エゼキエル書 17章22~24節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章6~10節

福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節

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からしだね

今日のテーマは、神の力の偉大さと恵みの深さについて伝えています。
今日の入祭唱は、「神よ、わたしの声をきいてください。あなたはわたしの助け、わたしを救ってくださる神。わたしをとおざけず、見捨てないでください」と祈り、今日の祭儀をはじめます。

聖体祭儀に集まっている人たちのこころを神の力の偉大さと恵みに向けた上で、集会祈願において(各年共通の集会祈願もB年も)、神の力の偉大さにより頼んでいます。
「あなたに望みをおく者の力である神よ」と呼びかけ、続いて「あなたを離れては何もできないわたしたちを恵みの力で強めてください」(各年共通)と、すべては神の手によって神に導かれているとわたしたちは祈ります。

今日の第1朗読では、歴史の鍵の持ち主が神ご自身であることを示しています。

第2朗読では、わたしたちの心をイエス・キリストの復活に向けさせ、信仰によって歩んでいることを思い起こさせています。

福音では、種のたとえをもって、どんな中にも神の種を見ていくこと、その種は人が知らないうちに大きくなっていく、神の国が大きくなるというように、人知れず、しかし確かな形で、今も天と地の創造の業が続けられていることをのべ、だから信仰によって生きることが大切であると言っています。

目に見えなくても、天と地の営みのすべてが、神の確かな力に支えられ、導かれているということへの信仰が求められます。変動の大きな世界の中で、わたしたちの責任と同時に、神への信頼が促されているのではないでしょうか。

こうして歴史の導き手は主であること、出来事の背景にはいつもイスラエルを愛してやまない「主であるわたし」がおられるのです。
この神のいつくしみを深く味わい成長していくのです。これを見る信仰の目を祈り求めましょう。

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第1朗読は、エゼキエル書が読まれます。エゼキエルが捕囚の地バビロンで預言者としての召命を受けたのは、BC593年のことでした。

今日読まれる箇所の前に、エゼキエルは、その当時の世界情勢をたとえでもって描いています。

神はその中で、エゼキエルに神の言葉を語らせます。彼はイスラエルの民を救い、神が歴史のうちに行われる救いの業、エルサレムを回復するというメッセージを「レバノン杉の梢」にたとえて、語っています。

そして、「野のすべての木々」、つまり、それにたとえられた世界の諸国民が神を世界の支配者として知るようになる」ということです。

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第2朗読では、コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章から読まれます。パウロはこの手紙の中で、「 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(4,5)とのべていますが、「それで、わたしたちはいつも心強い」と今日の朗読ははじまります。

6節の「わたしたちはいつも心強い」と8節の「わたしたちは、心強い」と、「心強い」を2回繰り返していますが、神が霊を与えてくださった心強さです。同時にパウロは「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」とものべています。

キリスト者は、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と、思い起こさせ、主のもとを離れても主と共に生きる歩みを可能にするとものべます。

からだの命を生きる限り、そして、からだの限界を超えて生きる命の中で、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」ものです。

パウロののべる心強さ、霊による心強さをわたしたちの確信としていただけるように、祈りましょう。

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マルコ福音書の中では、4章にイエスが語られたいろいろのたとえが集められていますが、今日の福音は「種を蒔く人」のたとえの後におかれた「成長する種」のたとえの話です。

「神の国は次のようなものである」とはじまっている2つのたとえです。
はじめのたとえは、「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と、あたかもひとりで育つように描写されています。

イエスはこのたとえで、成長するのは、種まきや収穫の際の人の業ではなく、種を蒔いた後、収穫までは人が積極的に関与することなしに、成長するという事実を語っています。

「さらに」とイエスは次の「からし種」のたとえを話されます。
このからし種は、蒔かれる時には「どんな種よりも小さく」人の目を奪うほどではないのに、「成長してどんな野菜よりも大きくなり」、「鳥が巣を作れるほど」に大きくなります。そうさせてくださる方に気づくと、「心強く」生きていくことができます。

このように、人の知らない間も神の業が行われ、人が集まって作る社会も「神の国」に成長していく、大きな共同体になっていくのです。成長を信じて待つのです。
「神の国」は、イエスが与える新しい霊的命を意味しています。

神の働きは目には見えなくても、大きな実りをもたらすので、信頼を持つようにと、わたしたちは呼びかけられています。

今日のマルコ福音書を読む時に、旧約の背景をも併せて読むとひと味違ったものになってくるとは思われませんか。

祈り

あなたに望みをおく者の力である神よ、
  わたしたちの祈りに耳を傾け、
  あなたから離れては何もできないわたしたちを
  恵みの力で強めてください。
  わたしたちがあなたのことばを守り、
  心も行いもみ旨にかなうものとなりますように。
   集会祈願より

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第1朗読 エゼキエル書 17章22~24節

主なる神はこう言われる。
わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、
高くそびえる山の上に移し植える。

イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、
うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。

そのとき、野のすべての木々は、
主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」
主であるわたしがこれを語り、実行する。

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第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章6~10節

それで、わたしたちはいつも心強いのですが、
体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

わたしたちは、心強い。
そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。

なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。

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福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節

また、イエスは言われた。
「神の国は次のようなものである。
人が土に種を蒔いて、
夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、
どうしてそうなるのか、その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。
「神の国を何にたとえようか。
どのようなたとえで示そうか。
それは、からし種のようなものである。
土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

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