教会カレンダー
B年 年間第32主日
第1朗読 列王記上 17章10~16節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節
福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節
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第1朗読 列王記上 17章10~16節
彼は立ってサレプタに行った。
町の入り口まで来ると、
一人のやもめが薪を拾っていた。
エリヤはやもめに声をかけ、
「器に少々水を持って来て、
わたしに飲ませてください」
と言った。
彼女が取りに行こうとすると、
エリヤは声をかけ、
「パンも一切れ、
手に持って来てください」
と言った。
彼女は答えた。
「あなたの神、
主は生きておられます。
わたしには焼いたパンなどありません。
ただ壺の中に一握りの小麦粉と、
瓶の中にわずかな油があるだけです。
わたしは二本の薪を拾って帰り、
わたしと
わたしの息子の食べ物を作るところです。
わたしたちは、それを食べてしまえば、
あとは死ぬのを待つばかりです。」
エリヤは言った。
「恐れてはならない。
帰って、
あなたの言ったとおりにしなさい。
だが、まずそれでわたしのために
小さいパン菓子を作って、
わたしに持って来なさい。
その後あなたと
あなたの息子のために作りなさい。
なぜならイスラエルの神、
主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。」
やもめは行って、
エリヤの言葉どおりにした。
こうして彼女もエリヤも、
彼女の家の者も、
幾日も食べ物に事欠かなかった。
主がエリヤによって告げられた
御言葉のとおり、
壺の粉は尽きることなく、
瓶の油もなくならなかった。
第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、
人間の手で造られた聖所にではなく、
天そのものに入り、
今やわたしたちのために
神の御前に現れてくださったからです。
また、キリストがそうなさったのは、
大祭司が年ごとに
自分のものでない血を携えて聖所に入るように、
度々御自身をお献げになるためではありません。
もしそうだとすれば、
天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。
ところが実際は、世の終わりにただ一度、
御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、
現れてくださいました。
また、人間にはただ一度死ぬことと、
その後に裁きを受けることが定まっているように、
キリストも、
多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、
二度目には、罪を負うためではなく、
御自分を待望している人たちに、
救いをもたらすために現れてくださるのです。
福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節
イエスは教えの中でこう言われた。
「律法学者に気をつけなさい。
彼らは、
長い衣をまとって歩き回ることや、
広場で挨拶されること、
会堂では上席、
宴会では上座に座ることを望み、
また、やもめの家を食い物にし、
見せかけの長い祈りをする。
このような者たちは、
人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、
群衆がそれに金を入れる様子を
見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、
レプトン銅貨二枚、
すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、
弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。
この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、
だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、
この人は、乏しい中から
自分の持っている物をすべて、
生活費を全部入れたからである。」
終末主日を迎えている私たちに、その現実を祈るにふさわしい神の言葉が読まれています。
預言者のメッセージもイエスのメッセージも心に緊迫感を与えるものです。私たちが典礼上の終末期を生きていることが切実に感じさせられます。
しかし、このことが不安をもたらすのではなく、希望の中においていただいているのは、まさにキリストの約束があるからです。
集会祈願で共に祈る「あなたのことばに励まされ、日々の生活をささげることができますように」を神の国を待ち望みながら心から祈ってまいりましょう。
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今日の第1朗読では、サレプタでのエリヤとやもめの物語です。
紀元前9世紀の中頃、預言者エリヤは北王国で活躍しました。当時干ばつは神からの重い罰と見なされ、今日読まれる朗読は干ばつという背景のもとに書かれています。預言者は神からサレプタに行くように指示され、サレプタに行ったところから今日の朗読が展開していっています。
サレプタに来たエリヤは、薪を拾っていた1人のやもめに声をかけ、水、次に一切れのパンを所望します。やもめは彼女のおかれている現状を預言者に訴えます。エリヤは彼女に「恐れてはならない……」とするべきことを彼女に指示します。無理な要求であるように思っても彼女は、預言者の言われたとおりに実行します。すると、「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」という恵みの体験をします。
この後、預言者エリヤはバアルの預言者との対決への歩みとなっていきます。
奇跡は預言者エリヤとやもめとのやりとりの中で行われます。預言者は「御言葉のとおり」におこない、やもめは預言者の言われたとおりに行い、その結果奇跡が起こりました。
「御言葉のとおり」に行う、このことが今日のメッセージとして伝えられているのでしょうか。
あなたへの言葉、主からのメッセージはいつ、どのようにつたえられるのでしょうか。識別が求められます。
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第2朗読は、先週に続いてヘブライ人への手紙を読んでいきます。今日の朗読で、大祭司キリストについてです。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」
イエスは死する人として私たちの中に来られましたが、キリストの死によって私たちの死を救い、祝福と変えてくださいました。
人間が死後に裁きを受けるという考えはユダヤの教えに見られる思想です。恐れつつ待つということから、キリスト者はキリストの救いを望みながら希望の待ちます。
あなたはどのような心で決定的なキリストとの出会いの時を待っておられますか。
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今日読まれる福音は38~40節の前半部と41~44節の後半部とに分けられ、前・後半部が対照的になっています。
受難を前にしてエルサレムに入ったイエスの教え、公生活の最後の説教ともなっています。前半部は「律法学者に気をつけなさい」と偽善的に生きる律法学者の姿を批判しています。
後半部は生活費すべてをなげうって賽銭箱にいれるやもめが賞賛されています。
前半部は「やもめの家を食い物にし……」と社会的にしいたげられている姿として描かれています。後半部では、貧しいやもめは人にたよるすべをもたず、神にのみ信頼している人を代表して描写されています。
すべてをささげたという姿勢についての視点だけでなく、このすべてがどういう位置づけにあったかをもみる必要があります。
やもめになると、当時の社会状況では、よほどの有力なバックがないかぎり生活するのが困難であるという社会的な弱い立場にあるのです。
やもめが入れたレプトン銅貨二枚というのは、当時の一般労働者の128分の1位にあたるほど少ない賃金にあるということです。現在の日本円にすると、約70~100円ほどだそうです。
すべてを捧げると言ってもこのやもめのもっていた生活費のすべてはそれほど少ない額であったということなのです。それを彼女はささげたのです。彼女にとって神以外にたよるすべがない状態におかれているのです。
キリストは弟子を呼び寄せてこのような状況におかれた、いや、このような状況におかされた人の生き方を弟子たちに語られます。
いろいろの視点で聖書を読むことができますが、終末週にある時に社会的視点の一部から読んでいくと、聖書から受けるメッセージも変わってきます。試みられませんか。このために、本田哲朗師著の『釜ヶ崎と福音』という本は役に立つと思います。
祈り
あわれみ深い父よ、
あなたはより頼む者のひたむきな心をご存じです。
希望を抱いて集うわたしたちを祝福してください。
あなたのことばに励まされ、
日々の生活をささげることができますように。
集会祈願より
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