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教会カレンダー

C年 年間第6主日

第1朗読 エレミヤ書 17章5~8節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章12、16~20節

福音朗読 ルカによる福音書 6章17、20~26節

呪(のろ)われよ、
 人間に信頼し、肉なるものを頼みとし、
 その心が主を離れ去っていく人は。

祝福されよ、
 主に信頼する人は。
 主がその人のよりどころとなられる。
                  (エレミヤ書)


この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、
 わたしたちはすべての人の中で最も惨めな人です。
                  (コリントの信徒への手紙1)


貧しい人々は幸いである。
今飢えている人々は、幸いである。
今泣いている人々は、幸いである。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、
ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。

富んでいるあなたがたは、不幸である。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。
今笑っている人々は、不幸である。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
                  (ルカによる福音書)

神に希望をおく、神に信頼をおく人は幸い、これが今日のテーマのようです。

山から下りて宣教生活をはじめられたイエスは、人々に向かい第一声をあげられます。「幸い」と「不幸」の説教です。

私の目の前におかれたいのちの道と死への道の二つの道です。あなたはどの道を歩んでいますか。

わたしは、真の「幸せ」にあずかっているかどうか、それが問われています。

* * * * * *

第1朗読はエレミヤの預言です。
 「呪われよ」とはじまる今日の朗読です。エレミヤ書の1~11節は、知恵の言葉と呼ばれていて詩の形式で書かれています。今日は8節まで朗読されますが、まとめて読まれることをおすすめします。

まとめて読んでみると、今日読んだところが「人の心」についてのエレミヤの深い洞察、彼自身の体験からの言葉であることが推察できます。

今日の答唱詩編を見て、エレミヤ書と似ていることに気づかれますか。詩編作者が、エレミヤの影響を受けたのでしょうか。

第1朗読の応答としての答唱ですので、まとめてゆっくりと味わいながら心にいれていくことをおすすめします。

今日の言葉は、あなたにどう響いてくるのでしょうか。

* * * * * *

先週に引き続き第2朗読では、コリント書が読まれています。

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と、はじまる今日の朗読です。

パウロはここで敵対者たちの考え方の核心に触れ、その考え方について直接反撃を向け論破しています。「死者の復活などない」という彼らに対するパウロの答えは、「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」ときっぱりと言います。

彼らの言うような立場に立つとすれば、信仰はむなしく、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者だとパウロは言います。キリスト教信仰の全体が崩れ去ってしまうのです。

キリストの復活は、キリスト教信仰の必然、絶対不可欠なものだとパウロは伝えます。キリストの復活がないなら、キリスト教宣教は虚偽の上に立っていることであり、キリスト復活を信じて亡くなった人は、人生の最大価値の保証がなくなり、すべてが崩壊してしまうと言います。

あなたの中でキリストの復活は、希望と信頼の頂点、キリスト信仰の土台となっているのでしょうか。

* * * * * *

今日朗読される福音は、「山上の説教」のルカ版である「平地での説教」の導入部分です。今日読む箇所は、マタイ福音書にも登場する有名な「真福八端」と呼ばれているものです。

ルカのそれは、マタイとはいくつかの点で異なっています。これらが分かるためには、双方を比較して読んでいくといいと思います。

ルカはマタイと異なり、「幸いである」には「心の」という限定語がありません。また、「義に」という限定語もなく、単に「今飢えている人々」と書かれています。聖書を通り一片に読むだけではなく、ルカ固有の意図を理解するには、マタイをも考慮する必要があります。

例えば、マタイが山に登り、ルカは山から下ります。マタイは「幸い」だけですが、ルカには「不幸」もあります。聞き手もマタイは第三人称ですが、ルカは「あなたがた」と二人称になっています。他も発見していってください。そして、ルカ福音書のユニークさをくんでいくのです。

「山から下りて、平らな所にお立ちになる」イエスの姿。ここに、人々の中に入ってこられるイエスを見ることができませんか。

「今飢えている」、「今泣いている」という今には、現実の社会の中でこの状況におかれている人々、見捨てられ、阻害されている人々に手をさしのべられるイエスの姿が伝わってきませんか。だから、「喜びなさい」と言われるのです。

財や権力、社会的ポジションがない時、人間的にすがるものがない時、人は神にすがることを知ります。貧しさそれ自体が人を幸いにするのではなく、貧しさの中で生き抜く人の中に、貧しさがイエスのように神により頼む者にし、そのことが幸い、「神の国はあなたがたのものである」という神の約束に結びつく時に、幸いを生み出す力となるのです。

きょうは、このイエスの幸いと、不幸のみ言葉を身にいれながら、私の生き方そのものを祈る一日といたしましょう。

祈り

すべての人をいつくしんでくださる神よ、
  ひとり子イエスはみもとに集う人々に、
  いのちのことばを語ってくださいました。
  救いを求めて集まるわたしたちを顧み、
  まことの幸いを教えてください。
   集会祈願より

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第1朗読 エレミヤ書 17章5~8節

主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。

彼は荒れ地の裸の木。
恵みの雨を見ることなく
人の住めない不毛の地
炎暑の荒れ野を住まいとする。

祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。

彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない。

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第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章12、16~20節

キリストは死者の中から復活した、
と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。

死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、
あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

そうだとすると、
キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。

この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、
わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、
眠りについた人たちの初穂となられました。

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福音朗読 ルカによる福音書 6章17、20~26節

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。
大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、
また、ティルスやシドンの海岸地方から〔来ていた。〕

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。

人々に憎まれるとき、
また、人の子のために追い出され、
ののしられ、汚名を着せられるとき、
あなたがたは幸いである。
その日には、喜び踊りなさい。
天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。

今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。

すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

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