home>カレンダリオ>教会カレンダー

教会カレンダー

C年 年間第32主日

第1朗読 マカバイ記二 7章1~2、9~14節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 2章16~3章5節

福音朗読 ルカによる福音書 20章27~38節

神は生きている者の神なのだ
                  (ルカ 20.38)

今日の典礼のテーマは、死者の復活、復活を信じた人間の生き方です。死が終わりなのではなく、死を越えて向こうに永遠のいのちがあることを信じます。

死者の叙唱の中に「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門である」と祈り、キリストのうちに私たちの希望、永遠のいのちへの約束によって深い慰めをいただきます。ゆっくりとこの現実を味わいたいです。

典礼は今日から「終末主日」と呼ばれる期間に入ります。ですから、主日、週日の典礼は終末的色彩が濃くなっています。

* * * * * *

第1朗読に読まれるマカバイ記は、第二正典とされています。紀元前175年~134年までのセレウコス朝シリアに抵抗するユダヤの人々の姿を描いたものです。セレウコス朝はパレスチナのヘレニズム化に熱心で、ことにアンティオコス4世はユダヤ教の弾圧政策をとり、ゼウス神の礼拝をエルサレム神殿に強要したのです。
  エルサレム神殿を、奪回と神殿の清めを中心として描かれた歴史書です。

ユダヤ教にとって豚は汚れた動物とされ、食することはもちろん、犠牲にささげることも禁じられていました。これを王は強要したのです。シリアの弾圧は非常に厳しいものでした。しかし、7人の兄弟たちはどんな仕打ちを受けようが、どんなに残酷な拷問を受けようが、その信仰を守り抜きます。

復活を固く信じた7人の兄弟の妥協のない生き方とその母親のけなげな殉教の姿が示されます。彼らの心を支えたのは、復活の信仰でした。

彼らにも恐怖と内面の葛藤(かっとう)があったとは思いますが、復活の希望に託して苦痛と死の恐怖を乗りこえました。

私たちが同じような場に立たされたらどうでしょうか。私たちの信仰はどう生きられるのでしょうか。

この7人の兄弟の物語は、非常に有名な物語で、大事にされてきました。マカバイ記の書かれた時代背景ということを考慮に入れながら、この機会にマカバイ記を読んでみたらいかがですか

* * * * * *

第2朗読では、先週に続いてパウロのテサロニケの信徒への手紙IIが読まれます。宣教旅行でテサロニケ(マケドニア州の港町)に滞在したパウロは、この手紙をコリントから書き送りました。その時、テサロニケの教会は、信仰共同体の開花を迎えていました。

今日の朗読は、(1)2章16~17節、(2)3章1~2節、(3)3章3~5節と3つの段落に分けて読むことができます。

ここで気がつくことは、「わたしたちを愛して」と「神の愛」、「強め」、「心を励まし」と「深く悟らせ(心を開き、導くこと)」など、(1)と(2)は表現が繰り返されています。

ここから(3)を読んでいくと、パウロの「わたしたちのために祈ってください」との祈りの願いが分かります。

パウロはテサロニケの信徒のために祈り、彼らはパウロのために祈ってくださいと願い、お互いの交わりの姿があります。

パウロは、迫害や苦難の中で、この初代教会の信徒たちが、確かな希望と恵みによって神の言葉に生きていくことができるようにと願い、励ましています。イエス・キリストによって「永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる」のは神だからです。

パウロの励まし、祈りこそ今日の私たちに必要なことではないでしょうか。

* * * * * *

今日の福音では、死者の復活を否定するサドカイ派のある人々がしかける巧妙な質問に対して、イエスがその誤りを指摘する話が取りあげられています。

イエスの時代、ユダヤ教は律法と現実生活との関係をめぐって意見が異なり、いくつかのグループに分かれていました。サドカイ派はファリサイ派やエッセネ派と並ぶ党派の一つです。
 エッセネ派は自分たちの生活を律法に合わせるために、都市の生活を捨てて荒れ野に行き律法にそった生活を選びました。ファリサイ派は、律法を現実にあわせようとして律法の解釈に工夫をしました。サドカイ派は律法と現実生活とのギャップに対して、適応させるのではなく、書かれたままの律法を重視しました。

ルカ福音書で、サドカイ派の人が登場するのは、今日の箇所が最初で最後です。彼らは神殿の大祭司を中心とする貴族の集まりで、復活の思想のないモーセ五書だけを重んじていたので、ファリサイ派とは違い復活を信じていませんでした。

このサドカイ派の人々は、申命記を引いてイエスに質問します。復活はないという自分たちの主張は聖書に基づいたものであるという立場に立っています。イエスの返答は、サドカイ派の人も認めるモーセ五書、出エジプト記の1節を引用して答えます。

イエスは、彼らが主張することの二つの過ちを指摘しています。
 ファリサイ派が信じていた復活観では、この世の生活が死後にも継続すると考えられていました。これを前提に、サドカイ派の人々はこの考えに基づいて、重婚になることを心配していました。イエスは、終末に人々がどうなるか、復活した神の子たちは新しい存在であり、この世のあり方とは全く違うのだと言われます。

さらにイエスは、サドカイ派が大切にするモーセ五書を引用して、彼らの考え方が聖書とは合わないこと、つまり復活があることを説いています。

この回答を聞いて、「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」と、この話は結ばれています。

今日の福音書でサドカイ派の人々とイエスとの論争、この論争の中でイエスは相手の論争を認めて、ご自分の回答をしておられます。

イエスが、「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれたことは、歴史を導いておられる神によってすべての人が生かされているという現実に、復活の教えも基づいているといわれている、のでしょう。

イエスは、復活の根拠は神が人と結ばれた契約に置いていると言います。その神は民との契約に忠実な方であり、復活はこの神への信仰なのです。

祈り

すべての人の救いを望まれる神よ、
  ひとり子イエスは、死からの復活によって、
  永遠のいのちの扉を開いてくださいました。
  ここに集められたわたしたちに希望の光を注ぎ、
  尽きることのない喜びで満たしてください。
   集会祈願より

▲ページのトップへ

第1朗読 マカバイ記二 7章1~2、9~14節

また次のようなこともあった。
七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、
律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。

彼らの一人が皆に代わって言った。
「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。
我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」

彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。
彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、

毅然として言った。
「わたしは天からこの舌や手を授かったが、
主の律法のためなら、惜しいとは思わない。
わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」

そこで、王自身も、供の者たちも、
苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。

やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。

死ぬ間際に彼は言った。
「たとえ人の手で、死に渡されようとも、
神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。
だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」

▲ページのトップへ


第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 2章16~3章5節

わたしたちの主イエス・キリスト御自身、
ならびに、わたしたちを愛して、
永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、
わたしたちの父である神が、

どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、
善い言葉を語る者としてくださるように。

終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。
主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、
速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、

また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。
すべての人に、信仰があるわけではないのです。

しかし、主は真実な方です。
必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。

そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、
また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。

どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。

▲ページのトップへ

福音朗読 ルカによる福音書 20章27~38節

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、
イエスに尋ねた。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。
『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、
その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

ところで、七人の兄弟がいました。
長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。

次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、
七人とも同じように子供を残さないで死にました。

最後にその女も死にました。

すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。
七人ともその女を妻にしたのです。」

イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、

次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、
めとることも嫁ぐこともない。

この人たちは、もはや死ぬことがない。
天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、
主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
すべての人は、神によって生きているからである。」

▲ページのトップへ