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教会カレンダー

C年 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

第1朗読 使徒言行録 5章12~16節

第2朗読 ヨハネの黙示録 1章9~11a、12~13、17~19節

福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

復活節第2主日は、伝統的に「白衣の主日」とも呼ばれます。また、この日はもう一つの名、「神のいつくしみの主日」をもっています。教皇ヨハネ・パウロ2世は、「神の愛のこもった寛容さ」が輝き出る復活節に、神のいつくしみをほめたたえるよう、この名の付記を定められました。全教会と共に、神のいつくしみというテーマでことに今日の典礼全体を祈りましょう。

復活祭の喜びの中で、再び主日を迎えた今日、キリストが復活された「週のはじめの日」は、教会の中では週のもっとも大切な日となりました。つまり、日曜日ごとに「主の日」として、パンを裂き、復活を祝うために集うかけがえのない日となったのです。今日、この「主の日」の意味を考えてみるのも良いのではないでしょうか。

教皇ヨハネ・パウロ2世は使徒的書簡「主の日」を教会に送り、日曜日の歴史と意味について述べられ、今日の世界にあって、「主の日」、日曜日の大切さを再認識するようと、呼びかけておられます。

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第1朗読の使徒言行録では、教会のはじめの出来事、つまり、主の復活の力により誕生し、成長を続けていく教会の姿を描いています。イエスに従った使徒たちは、イエスの地上の生活と復活の証人としてキリストを宣言します。

今日読まれる後半の箇所は、イエスの宣教生活のはじめの記事(マルコ 6,55~56、ルカ 6,17~19など)と似ています。イエスが行かれるところにいやしを求めて人々が集まり、イエスは人々をいやされます。同じように使徒たちのまわりに集まる人々に彼らは、「多くのしるしと不思議な業」が行われたことが語られていますが、今日はペトロの働きが述べられています。

復活されたイエスの力が、使徒たちをとおして目に見えるしるしとなって働いています。使徒たちに触れた人々は、いやされます。彼らからいやしと祝福の力が出るのです。神の力は、具体的に使徒たちの中に示されています。

復活節の聖書朗読では、復活後出現されたキリストを中心に、主の復活をあかしした弟子たちの姿をたどっていきますが、第1朗読では一貫して使徒言行録を読んでいきます。教会の生き生きした姿、聖霊がどのように教会の誕生と成長を導かれたかが伝わってきます。ぜひこの機会に、ゆっくり読まれることをおすすめします。

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第2朗読では、ヨハネの黙示録が読まれます。今日から第6主日まで読んでいきます。

ヨハネの黙示は、96年ごろに書かれました。旧約の預言をキリストの光に照らして解釈し、手紙の形式で書かれています。「イエス・キリストの黙示」とはじまるように、復活されたキリストを中心に全宇宙の歴史が繰り広げられていくさまを描いていきます。黙示文学という特殊な文学に属するので、手引き書を手元に置きながら読んでいくのは助けとなるでしょう。

今日読まれる箇所では、まずヨハネは自己紹介からはじめ、イエス・キリストから託された使命について語ります。次に語りかける声の主についての描写、最後にこの方から改めて託された使命について述べています。ヨハネは「見たこと、今あること、今後起ころうとしていること」を書き記す使命をうけています。

恐れるな。
わたしは最初の者にして最後の者、
また生きている者である。
一度は死んだが、
見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
さあ、見たことを、今あることを、
今後起ころうとしていることを書き留めよ。

なんと力強い言葉ではありませんか。ヨハネは困難の中におかれている信徒に、歴史の支配者であられるキリスト、その方は終末の時の祝福、復活の道をすでにそなえておられる方を指し示しています。

今の世界の様々な出来事のただ中に生きる信徒たちにも、ヨハネのあかしは希望を与えてくれます。そう感じませんか、そう響きませんか。

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福音は、ヨハネの福音が第6主日まで朗読されます。
 今日の福音の箇所は、ヨハネ福音書による「聖霊降臨」と呼ばれ、ABC年とも共通朗読箇所になっています。今日の福音が伝える2つの主のご出現は、復活信仰と、将来の教会のいのちにとって大切な意味をもっています。

福音の最初の部分(19~23節)は、イエスの顕現がテーマとされ、後の部分(24~29節)では、トマスの信仰告白がテーマとなっています。

この二つの部分には、いくつかの共通点があります。
(1)出来事が起こった日:「週の初めの日」、「8日の後」つまり、日曜日であること。
(2)イエスのあいさつの言葉は平和(シャローム):イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
(3)出来事の起こった部屋は:戸に鍵がかかっていたこと。

これらの共通点には意味があります。
(1)日曜日というのは、初代教会では、日曜日に一同集い祭儀を行い、イエスの復活を信徒に思い起こさせていたと考えられます。

(2)ユダヤの世界の通常のあいさつは「平和(シャローム)」ですが、ここでは、イエスがなさった約束である平和です。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。
               (ヨハネ 14章27節)
(3)前半の部では、戸に鍵がかけられていたのには、「弟子たちはユダヤ人を恐れて」と理由が述べられていますが、後半の部には理由づけはありません。

恐れが弟子たちの心を閉ざしていますが、イエスはそのただ中に来られます。
 その場にいあわせなかったトマスは、弟子たちが「主を見た」ことを聞いてもそれを受け入れず、イエスの「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」と確証を要求する三つの条件を述べるだけでなく、「わたしは決して信じない」と言い切っています。イエスが現れたときに不在であったトマスは、確かな証拠を求めます。

そのようなトマスに、この度も戸が閉まっていたのに、イエスは再び現れ真ん中に立たれます。復活されたイエスの体は、私たちとは全く違う体です。閉ざされた戸は障害とはならないのです。

イエスは、

あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。
と言われ、懐疑の念であれほど強く言いはなっていたにもかかわらず、トマスは触れることなく「わたしの主、わたしの神よ」と告白します。

弟子たちが閉ざしていたのは、家の戸であると同時に心の戸でもあったといえます。恐れのために閉ざされていても、真ん中にたたれたイエスは私たちの生活の中心におられます。トマスの懐疑心、不信感は、8日間トマスの中に閉じ込められています。この時のトマスはどんな気持ちで生きいたのでしょうか。不安と喜びの予感の中にいたのでしょうか。このトマスにイエスは出現されたのです。

弟子たちはイエスから息を吹きかけられ、霊をうけます。この霊は新たに創造しなおす霊、使命を果たす力の霊、罪からきよめる霊です。

私たちも「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とのイエスの呼びかけに応え、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したいものです。

祈り

あわれみ深い神よ、
  あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、
  水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。
  年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、
  信仰に生きることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 5章12~16節

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。
一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、

ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。
しかし、民衆は彼らを称賛していた。

そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。
ペトロが通りかかるとき、
せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。

また、エルサレム付近の町からも、
群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、
一人残らずいやしてもらった。

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第2朗読 ヨハネの黙示録 1章9~11a、12~13、17~19節

わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、
その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。
わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。

ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、
後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。

その声はこう言った。
「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、
ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」

わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見え、

燭台の中央には、人の子のような方がおり、
足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。

わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。
すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。
「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、

また生きている者である。
一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。

さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。

イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、
彼らと一緒にいなかった。

そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない。」

さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。

それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、
それはこの書物に書かれていない。

これらのことが書かれたのは、
あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

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