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教会カレンダー

底知れぬ優しさの淵からゆり動かされて

神が、私たちと連帯されることは、単なる美しい観念ではなく、それ以上のものであることを、どのように知るでしょうか?

神は私たちの神であり、見知らぬ存在でも、よそ者でも、行きずりの存在でもないことを、どのように知るでしょうか?

イエスにおいて神のあわれみが人の目に見えるものとなったことで、これを知るのです。  イエスは、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」と言われただけでなく、私たちの世界においてこの神のあわれみの具体的な現れそのものになられたのです。

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福音書のなかに、12回だけ現れるすばらしい表現があります。それは、イエスまたはおん父に関してのみ使われています。この表現は「あわれみに動かされて」となっています。ギリシア語では「スプランヒニゾマイ」と言われますが、この表現の深い力強い意味を表しています。「スプランヒナ」は、からだの内蔵を指し、今日ならおそらくはらわたにあたるでしょう。それは、私たちのもっとも深く激しい衝動が納められている場所です。それは、情熱的愛と激しい憎しみの両方が生まれる中心部分なのです。

福音書がイエスのあわれみについて語り、イエスがはらわたの底から感動したと言うとき、それは何かとても深く神秘的なものを表現しています。イエスが感じたあわれみは、悲しみや同情のように表面的で一時的な感情とは明らかに違うものでした。むしろそれは、彼の存在のいちばん傷つきやすいところにまで達するものです。

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イエスは大勢の人が牧者のない羊の群れのように悩み、落胆しているのをごらんになったとき、存在の中心でその人びとに共感を覚えました(マタイ 9.36) 。

イエスは、あらゆるところから彼のもとに連れてこられた目の不自由な人や中風の人、また口のきけない人を目にしたとき、心底から感動にふるえ、心のなかで彼らの痛みを体験されました(マタイ 14.14) 。

イエスはこの三日間ご自分に従ってきた数千の人びとが疲れ、空腹であるのに気づいたとき、「この群衆がかわいそうだ」と言われました(マルコ 8.2)。

また、同じことが、彼の後から呼びかけた目の見えない二人の人や(マタイ 9.27)、彼の前にひざまずいたハンセン病を病んでいる人(マルコ 1.41) や、さらに、ひとり息子を葬ろうとしているナインのやもめを見たときに起こりました(ルカ 7.13)。

その人びとがイエスの心を動かし、彼の内面の深い感受性のすべてで、彼らの悲しみの奥底までも感じ取らせたのでした。彼は迷った人とともに迷い、飢えた人とともに飢え、病気の人とともに病んだのでした。彼のなかで、あらゆる苦悩がその完全な感受性によって感じ取られたのです。

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イエス・キリストにおいて、またこのかたによって、神が私たちの神であることを知り、私たちの損なわれた状態を体験なさり、私たちのために罪となられた(IIコリント 5.21)神であることを知るのです。このかたは、そのあわれみの限りない優しさによって、人間の一切合切を抱擁なさったのです。

女子パウロ会刊行『コンパション』より

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