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聖人カレンダー

11月23日 聖コロンバン修道院長

543年-615年

 コロンバンはアイルランドのレンスター州出身で、貴族の家に生まれた。子どものころ、優れた教師たちから教育を受けた。彼は容姿に恵まれていたので、町の女性たちから誘惑を受けた。彼はこのことで、とても苦しみ、隠遁者となった女性のところへ行って、助言を求めた。彼女は神のためにすべてを捨てて生きる生活を勧め、コロンバンは母親の反対を押し切って、修道院に入ることを決心した。

 彼は、まずアイルランド北部にある、クルアンイニスの共同体に行き、院長シネルの指導のもと、聖書の勉学に親しんだ。そして20歳のとき、アイルランド東北部にあるバンゴール修道院に入った。院長のゴンガルのもとで、祈り、勉学に励み、禁欲的な生活を送った。ここで、コロンバンは司祭に叙階された。バンゴールでの生活は、彼の修道制思想に大きな影響を与えた。

 それから約50年間、コロンバンは12人の同士とともにヨーロッパ宣教旅行に出かけた。当時、ヨーロッパは民族の移動により、修道院や教会が破壊され、人びとの生活も荒廃していた。彼らはアウストラシア(現在のフランス)に到着し、未開拓の地で生活をはじめた。修道士たちは土地を開拓し、祈りと厳しい禁欲の生活を送り、人びとによい模範を与えた。やがて、人びとや巡礼者が訪れるようになり、多くの若者たちが仲間に加わることを望んだ。修道士たちの数が増えたため、第二の修道院をリュクスーユに建てた。

 コロンバンはリュクスーユで20年間過ごし、ここで彼は『修道規則』を著した。この本は彼に従う人びとのために書かれたものであり、現存するもっとも古いアイルランドの修道規則である。

 そのころ、国王や権力者たちは風俗の乱れた生活を送り、ヨーロッパは暗黒の時代を過ごしていた。勇気あるコロンバンは躊躇することなく、彼らの行いが正しくないことを指摘し、やがて宮廷と対立するようになった。そのため、彼はガリア(現在のフランス)から追放されたが、またドイツに戻って、スイス、イタリアなどで宣教した。

 イタリアでは、異端であるアレイオス派との論争で活躍し、分裂していた教会を一致させるため、教皇ボニファチオ4世に手紙を書き送った。

 612年または613年ごろ、イタリアのエミリア・ロマーニャ州にあるボッビオに修道院を建て、彼はそこで615年11月23日に亡くなった。

 彼は、生涯を通じて、地上の富から離れ、禁欲的な生活を送ったが、それは彼が神の愛に自由に心を開き、神が与えてくださるたまものに自分のすべてをもって、応えるためだった。文化人だった彼は、修道司祭、宣教者、著述家としてさまざまな国で活躍し、ヨーロッパの再キリスト教化、文化的統一のために力を尽くした。

 聖コロンバン会は、1916年2人のアイルランド人司祭によって創立され、聖コロンバンを保護者としている。



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