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聖人カレンダー

2月の聖人

1日 聖ブリジッタおとめ

453年-524年

 ブリジッタは、アイルランドの信仰深い家庭に生まれた。幼いときから修道女になることを志し、貧しい人びとの世話をするなど、常に神と隣人への愛に生きていた。18歳になると数人の同志とともに神に従って生きる生活を始め、司祭メル(後のアイルランドの司教)のもとで誓願を立てた。そしてギルデアに、アイルランド最初の女子修道院を建てた。ブリジッタは人びとの霊的・物質的生活の向上に努め、修道院を学問と芸術の場とした。彼女の行ないは人びとに影響を与え、「ゲール人のマリア」として慕われるようになった。

 彼女の遺体は、アイルランドの守護の聖人である聖パトリック(3.17 参照)のそばに葬られた。彼女はブライドとも呼ばれ、聖パトリックとともにアイルランドの守護聖人として親しまれている。



2日 主の奉献

 マリアとヨセフは、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」(出エジプト13.2 参照)というモーセの律法に従って、イエスの誕生40日目に、幼子を神にささげるためエルサレムの神殿に行った。このことは、神と人との新しい契約のために遣わされた救い主イエスが聖所に入り、父なる神に完全にささげられたことを意味する。

 家族は神殿でシメオンからイエスが民の救い主であり、将来どのような運命を生きるかを預言された(参照 ルカ2.22-35)。そのときシメオンがイエスのことを「異邦人を照らすまことの光」と賛えたことから、この日にはローソクの祝別式とローソクの行列が行われている。



3日 聖ジャンヌ・ド・レストナック

1556年-1604年

 フランスのボルドーの裕福な家庭に生まれたジャンヌは、17歳で結婚し、5人の子どもを育てた。41歳のときに夫を亡くしてからは、慈善事業、福祉事業に尽くした。子どもたちが独立すると、若い女性のために余生をささげようと決意し、聖イグナチオの精神を取り入れた「聖マリア修道女会」を創立した。ジャンヌは修道会を導き、多くの修道院と女学校を設立した。この修道会は、聖マリアに倣い、神の栄光のために聖マリアの使命を継続することを目的としている。教育事業に貢献した最初の女子修道会である。

 聖マリア修道女会は、1959年に日本に渡来し、東京、秦野(神奈川県)、千葉で、幼稚園、学生寮など信仰教育に奉仕している。



3日 聖ブラジオ司教殉教者

?-316年

 8世紀の伝説によると、ブラジオは高貴で裕福な家庭に育ち、幼いころからキリスト者として育てられた。善良な彼は、司教として人びとの身体的、霊的必要のため、熱心に司牧に携わった。311年、ローマでは皇帝コンスタンティヌス1世のミラノ勅令によって、キリスト教が公認されるようになったが、そのころアルメニアではまだ迫害が続いていた。ブラジオは隠遁者として、洞窟で孤独と祈りの生活をし、動物たちとともに暮らした。ある日、狩りにやってきたハンターたちは、ブラジオを見つけて驚いた。祈っている彼の周りには、オオカミ、ライオン、熊がいたが、彼は何の害も受けてなかったのである。ブラジオが司教だと知ったハンターたちは、彼を監獄に連れて行った。道中、ブラジオは一匹のオオカミに出会った。オオカミはある貧しい女性のブタを捕らえていたが、ブラジオはそのブタを逃がしてやるようにと、オオカミを説得した。持ち主であった女性はブラジオに感謝し、監獄にいる彼に食べ物とローソクを持って行った。あるとき、幼い息子を持つ母親が現れ、子どもの喉に引っかかった魚の骨を取り除いてくれるように、ブラジオに願った。ブラジオの祈りによって、子どもは咳をし、喉から骨が出てきた。

 カッパドキアのアグリコラウスは、異教の神に犠牲をささげて、信仰を捨てるよう、ブラジオに命令した。最初に拒んだとき、彼はむち打たれ、2回目のときには木に掛けられ、鉄の熊手で体を引き裂かれた。最後には、司牧していたアルメニアのセバステアの教区で首をはねられ、殉教した。

 ブラジオの祝日に2本のろうそくを喉に当てて、祝福する習慣が残っている所もある。



3日 聖アンスガリオ司教

801年-865年


 アンスガリオは、フランス北部にある、アミアンという都市に生まれた。高貴な家庭の出身で、コルビエ(フランス北部)で教育を受け、修道院に入った。修道士になった彼はドイツのヴェストファーレンに移り、活動をはじめた。亡命していたデンマークの王、ハーラルが洗礼を受けて祖国に戻るとき、アンスガリオは同行し、彼は王の保護のもとにそこで宣教した。

 彼はデンマークでの宣教に成果を上げ、それを耳にしたスウェーデンの王、ビョルンの要請を受けて、スウェーデンで宣教し、教会を建てた。831年、ドイツのハンブルクの司教に任命され、その後教皇グレゴリオ4世によって、ノルウェー、スウェーデンに派遣され、統治した。彼はそこで宣教に励むが、845年、異教徒であるノース人がスカンジナビア半島に侵入し、キリスト教は打撃を受けた。848年、ドイツ、ブレーメンの司教に任命され、ニコラス1世のときに、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンを統治する権限を与えられた。

 彼は疲れを知らない説教家であり、学校を建て、貧しい人びとを助けた。詩編の祈りを愛し、毛皮の衣を身につけ、健康が許せばパンと水で過ごすなど、禁欲的な生活を送った。865年にブレーメンで亡くなり、そこに埋葬された。



4日 聖アンドレア・コルシーニ司教

1302年-1373年

 アンドレアは、イタリア、フィレンツェの貴族の家に生まれた。若いころ快楽的な生活にふけっていたが、あるとき改心し、神にのみ従いたいと望みカルメル会修道院に入った。修道院では人一倍熱心に修行に励み、やがて修道院の院長に選ばれ、後にフィレンツェ近郊のフィエーゾレの司教に任命された。つつましい生活の中で謙遜に人びとに仕えるアンドレアの姿は、人びとの心を打ち多くの影響を与えた。彼が亡くなると、人びとは彼を聖人と称してやまなかったといわれている。



5日 日本26聖人殉教者

1597年殉教

 1549年、聖フランシスコ・ザビエルが来日してから、キリスト教は大名や武士の間に広まっていった。豊臣秀吉も最初はキリスト教に好意的であり、宣教師を保護したが、九州征伐のときに一部の宣教師を国外に追放するという命令を出し、教会を破壊するなど公の宣教を禁止した。しかし秀吉は貿易の発展には前向きであり、1593年にフランシスコ会士ペトロ・バプチスタと通商条約を結び、京都での宣教を許可した。信徒は増し、30万人を超えたといわれている。

 1596年に四国の海岸でフィリピンからメキシコに行くスペインの船が座礁したとき、積み荷を秀吉が没収するという「サン・フェリペ号事件」が起こった。そのためフランシスコ会が、秀吉の行為を条約違反だとしてスペイン船側の代弁をしたために彼は憤慨し、京都、大阪周辺のフランシスコ会士、イエズス会士、キリスト信徒ら24名を捕え、死刑を命じた。その中には、幼い子どもの信徒3人もいた。

 彼らは、京都、堺、大阪市内を引き回されたのち、長崎までの道のりを歩かされた。その間、彼らの世話をした2人の信徒も自ら一行に加わった。長崎の西坂に26の十字架が立てられ、はりつけになった彼らは、最期までともに祈り、聖歌を歌いながら殉教を遂げた。彼らの死は日本の教会の初穂となり、この地はキリシタンの巡礼地となった。長崎26聖人記念館には遺品の一部が安置されている。

 1862年6月8日に聖人の列に加えられた。1997年2月5日は日本26聖人殉教400年祭にあたり、記念式典が催された。



6日 聖アガタおとめ殉教者

3世紀

 アガタは、シチリア島のカタニアの貴族の家に生まれた。教養もあり、大変美しかったアガタは、島の知事から結婚を申しこまれたが拒否したため怒りをかい、キリスト教徒であった彼女は法廷に引き出された。当時はローマ皇帝によるキリスト教弾圧が激しく、信仰を捨てさせるためアガタは乳房を切り取られるという拷問を受けた。衰弱しきってもなお祈り続ける彼女のところに聖ペトロが現われて励まし、奇跡的に傷が治ったといわれる。決して信仰を捨てない彼女はついに炭火と焼けつく石の上を引きずられ、牢獄の中で息を引き取った。

 アガタは、絵画に乳房を皿に載せた美しい女性として描かれている。後に 大聖グレゴリオ(9月3日 参照) も聖女をたたえ、彼女を記念してローマに聖堂を建てた。

 エトナ火山が爆発したとき、彼女の遺物によって町を救ったと伝えられることから、火災予防の守護の聖人とされている。

※他の国では、2月5日に祝われるが、日本ではその日「日本26聖人殉教者」を祝うため、6日に祝われる。



6日 聖パウロ三木

1563年-1596年

 キリシタン武将 三木半太夫の息子。
 安土セミナリヨの第1期生。イエズス会のイルマンとなり、大阪で布教活動をしているとき捕らえられ、京都市中引き回しの後、長崎西坂で殉教。

 日本26聖人の一人として、遺骨は日本26聖人記念館に納められている。

 1862年に26殉教者の一人として列聖された。



7日 福者エウジェニ・スメット(み摂理のマリア)修道女

1825年-1871年

 エウジェニは、フランス、リールの信仰深い家庭に生まれた。あるとき祈っていると「清めの教会の魂の救いのために神の道具になるように」との神からの促しを受けた。それ以来エウジェニは修道生活への望みを持ち、祈りと犠牲をもって時がくるのを待った。

 そして「練獄の霊魂の会」という信心会を作り、1856年に「練獄援助修道会」(現在の「援助修道会」)を創立した。そして数名の同志とともに聖イグナチオの会則に従い「神の栄光と練獄の霊魂のために祈り、苦しみ、働く」ことを目的とし、パリの貧しい一室から活動をスタートした。病人の看護、キリスト教要理教育、施設などの事業へと会は発展していった。

 同会は1935年に来日し、東京、広島、北九州などで、幼稚園、老人ホーム、寮、黙想の家を経営し、司牧、看護、教師、ケースワーカーなど、社会のただ中にあってその使命を果たしている。



8日 聖ヒエロニモ・エミリアニ

1486年-1537年

 ヒエロニモは、イタリア、ヴェネチアの貴族の家に生まれた。15歳から軍隊生活を送ったが、あるとき敵に捕えられ、聖母マリアに祈りをささげ奇跡的に獄中から脱出する体験をした。このときから彼は神に生涯をささげようと決心し、1518年に司祭となって病気に苦しむ人びと、貧しい人びと、身よりのない子どもたちの世話をした。そして人びとの必要に応じて3つの施設をイタリアに設立し、1532年に同志とともに、特に身よりのない子どもの世話と教育をする修道会「ソマスキ会」を創立した。

 1537年にベルガモにペストが流行したときも看護に奔走し、自らも感染して天に召された。

 彼は、身よりのない子どもの守護者といわれている。



8日 聖ジュゼッピーナ・バキータおとめ

1868年-1947年

聖ジュゼッピーナ・バキータおとめ

 聖ジュゼッピーナ・バキータは、スーダン、オルゴッサ村の有力者の家庭に生まれた。7歳のとき誘拐され、奴隷として5度も売買された。暴力を受ける過酷な日々を送り、体には60ヵ所もの傷があったという。この体験が彼女の心に深い傷を与え、彼女は自分の名前を忘れてしまった。そのため、他の奴隷たちからバキータと名付けられた。「バキータ」とは、「幸運」という意味である。

 バギータが16歳のとき、スーダンの領事だった、イタリア人のカッリスト・レニャーニが、彼女をあたたかく迎え、自由を与えた。彼は、友人のアウグスト・ミキエーリにバキータを託し、ミキエーリは娘の乳母として彼女をイタリアに連れて行った。バキータは、ヴェネツィアでカノッサ修道女会を知り、洗礼を受け、1893年に修道会に入ることを決心した。

 ヴェローナの北東にあるスキーオに移り、料理や縫い物をして共同体に奉仕した。やさしく、穏やかで、いつもほほえんでいた彼女は、皆に愛された。後に自伝を公にしたことで、彼女の徳の高さはイタリア中に知れ渡った。

 晩年、病に苦しんだが、「主のみ旨のままに」とすべてを受け止め、1947年2月8日に、亡くなった。2000年10月1日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列聖された。



9日 聖アポローニア殉教者

?-248年

 キリスト教迫害がアレキサンドリアで起こったとき、アポローニアも捕えられた。歯を1本ずつ抜かれる拷問にあい、信仰を捨てるように強いられたが、ひるむことのない彼女は火刑に処せられることとなった。

 聖アウグスチヌスは著書『神の国』の中で、彼女に触れその徳の高さを述べている。絵画に、彼女は歯を抜くペンチを持った姿や、自分の歯で作った首飾りをかけた姿で描かれている。

 アポローニアは、歯科医や歯の守護の聖人とされている。



10日 聖スコラスチカおとめ

480年ごろ-542年ごろ

 スコラスチカは、イタリア中部のヌルシアの裕福な信仰深い家に生まれた。兄は、 聖ベネディクト (西欧の修道院制を確立し、修道生活の父と呼ばれる。7.11参照)である。

 彼女は生後まもなく母を亡くし、父と兄によって育てられた。兄が山にこもり、厳しい修道生活を始めると、スコラスチカも修道生活を送り、神に生涯をささげたいと望むようになった。やがて彼女は兄が創設したモンテ・カッシーノ修道院の近くに家を建て、祈りと労働の生活を始めた。彼女のもとに「ともに祈り、働く生活をしたい」と願う女性たちが集まり、その家は修道院となった。彼女は院長となり会員たちを導いた。

 当時、ベネディクト会修道院には異性が入ることはできなかったので兄妹は年に1度、修道院の中間にある農家で出会い、神、祈り、修道生活について語りあった。死期が近づいたことを感じたスコラスチカは、兄ともっと神について語り明かしたいと思った。彼女の切なる祈りは嵐を起こし、帰ろうとする兄の足を引きとめたといわれる。その3日後、彼女は息を引き取り天に召されていた。兄ベネディクトは、妹の魂が白い鳩のように昇天していくのを見たという。兄妹は同じ墓に眠っている。



11日 ルルドの聖母

 現在の南フランス、ルルドには4つの教会と多くの病院が建ち、世界中から多くの人びとが毎日、巡礼に訪れている。

 これは1858年2月11日、ベルナデッタ(1844-1879)という14歳の貧しく無学に近い娘のところに聖母マリアが現われたことに始まる。まきを採るために出かけた彼女は、小さな洞くつから光が輝き出、その中に真っ白な服装で腕にロザリオを下げた美しい女性が立っているのを見た。「15日間ここに来るように」とその女性からいわれたベルナデッタは、洞くつに通い続けた。人びとは最初冷笑したが、日増しに彼女とともに洞くつに通い、祈るようになった。その間、ベルナデッタは聖母マリアからのメッセージ「罪を償うこと、この場所に聖堂を建てること」などを人びとに伝えた。彼女のもとに聖母は18回現われた。
 聖母マリアがベルナデッタに命じて掘らせた泉が、人びとの病をいやしたことからいつしかその話が人びとの中に広まった。

 綿密な調査の結果、カトリック教会はルルドに聖母が現われたことの真正を認めた。

 その後1866年にベルナデッタはヌヴェール愛徳修道会の修道院に入り、病弱な身をイエスにささげながら35歳の生涯を閉じた。現在、彼女の遺体は腐敗しないまま安置されている。1933年、ベルナデッタは聖人に加えられ、記念日は4月16日とされた。



12日 聖ユリアヌス(看護者)

生没不詳

 ユリアヌスは、伝説の聖人であり、さまざまな伝説が残されている。貴族の家に生まれたユリアヌスはある夜、彼が自分の寝室に入った際、すでに寝ている人を侵入者だと勘違いして、自分の両親を殺してしまった。良心の呵責(かしゃく)にさいなまれた彼は、罪を償うために妻とも別れ、城を出ることに決めた。しかし、夫とともに罪を償いたいと望む妻の願いに心を打たれ、ユリアヌスはともに城を出て川の近くに住んだ。そこで夫妻は、旅人や貧しい人びと、病人に献身的に尽くし生涯を送った。

 ある寒い夜、川の方から助けを求める声を聞いたユリアヌスは、凍え死にしそうになった旅人を助け懸命に看護し命を救った。回復した旅人は「神は、あなたの悔い改める心をお受けになりましたよ」と言って、幻のように消えたといわれている。

 現在でもヨーロッパ各地にユリアヌスの名を記念した病院、施設、教会がある。



13日 聖カタリナ・リッチおとめ

1522年-1590年

 カタリナは、イタリア、フィレンツェに生まれた。幼いころからトスカーナのドミニコ会修道院で教育を受け、14歳で誓願を立てた。1542年の四旬節にイエスの受難を黙想していたときに重い病にかかり、復活したイエスの幻を聖土曜日に見るまで病床に伏していた。

 以後12年間、毎木曜日の正午から金曜日の午後4時まで、カタリナは脱魂状態になり、イエスの受難を体験したのだった。イエスから与えられる数々のビジョンにより、彼女は人びとから注目された。教皇、枢機卿、司教をはじめ彼女のもとには、多くの人びとが意見を求めに訪れた。しかしカタリナは、決して誇ることなく、良識ある態度と強い自制心によって修道生活を送り、共同体のために尽くした。

 1560年には修道院の院長となり、会員を導いた。カタリナは賛美歌を作曲するなど教会の典礼にも貢献した。



14日 聖チリロ隠世修道者/聖メトジオ司教

827年ごろ-869年/815年ごろ-885年

 両聖人は兄弟であり、東ローマ帝国の官吏の息子としてギリシャのテサロニケ(現サロニカ)に生まれた。当時、ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄えていた。2人はスラブ人の文化に触れ、それを身につけ、のちに首都コンスタンチノープルにも遊学した。チリロは哲学、神学に優れ、宮廷付司祭となった。メトジオは、官職についたが、後に修道院に入った。

 862年、東ローマ皇帝ミカエル3世は、モラヴィアの国王の要請に応じて、兄弟を宣教師としてモラヴィアに派遣した。2人は流ちょうなスラブ語で説教をし、文字も書物もなかったこの地にスラブ語の文字を新たに作り、聖書をスラブ語に翻訳するなど、宣教活動によって教会を改革していった。こうしてスラブ族の大半は、キリスト教徒になった。2人はローマに招かれ、教皇から祝福を受けたが、チリロはとつぜん大病にかかり、42歳で亡くなった。その後、メトジオはモラヴィアに戻り、宣教活動を続けるが、東フランクの聖職者の反感を買い、投獄された。しかし教皇の尽力によって873年に釈放され、その後も、スラブ教会のために聖書の翻訳や、聖職者の養成に力を注いだ。兄弟は「スラブ族の使徒」と呼ばれている(7.7 参照)。



14日 聖バレンチノ(バレンタイン)司祭殉教者

?-269年ごろ

 ローマ皇帝クラディウスのキリスト教迫害下にあって、バレンチノはローマの司祭として熱心に宣教し、苦しむ人、貧しい人、病める人を助け導いた。バレンチノの宣教をやめさせるように命令を受けたローマ判事アステリアは、目の不自由な娘がバレンチノの祈りによって治ったことから、家族全員で洗礼を受けキリスト教徒となった。そのため皇帝はバレンチノをはじめアステリアらを処刑した。

 バレンチノは子どもをはじめ家畜などの病気を治したので、子どもや家畜の守護の聖人として人びとから親しまれていた。ローマ殉教録によるとこの日に同名の司教が殉教しており、それらの伝説や奇跡などが重なったと考えられる。

 中世になると、バレンチノの記念日に異性に愛の告白のカードを渡す慣習が広まり、恋に悩む人たちがバレンチノに取り次ぎを願った。古代ローマで豊作を祈願するルペルカリア祭(2月中旬)に女性が愛の手紙を書いてつぼに入れ、手紙を受け取った男性がその女性をデートに誘うという習慣があり、それに結び付けられたといわれる。

 現在までその習慣は受け継がれたが、日本では1960年前後からあるチョコレート会社の商業戦略によって「バレンタイン・デー」として、手紙の代わりにチョコレートを贈ることがブームとなっている。



15日 聖ジークフリード

?-1045年

 ジークフリードは、イギリスのヨークに生まれ、グラストベリーのベネディクト会修道院に入った。当時、ノルウェー国王がイギリス国王に宣教師の派遣を願っていたので、ジークフリードは宣教師として数名の仲間とともに派遣された。

 彼らはノルウェーで熱心に宣教し、多くの人びとに洗礼を授けた。ジークフリードはスウエーデン国王にも洗礼を授け、ベクシェに教会を建て、そこを中心にスカンジナビア地方一帯の人びとを信仰に導いた。

 ベクシェの初代司教となり、3人の甥とともに活躍したといわれている。

 ジークフリードはスウエーデンの守護の聖人として、国民から親しまれ尊敬されている。



16日 聖オネシモ

1世紀

 聖パウロが小アジアへの宣教旅行でコロサイに行ったとき、フィレモンという財産家に洗礼を授けた。パウロがフィレモンを「愛する協力者」としてたたえているように、彼は熱心に信仰を守り、宣教のために働いた。オネシモはフィレモンの奴隷であったが、ある日逃げてローマに行った。そこでパウロに出会って回心し、洗礼を受け、パウロの宣教のよい協力者となった。

 パウロはフィレモンにオネシモをもう一度奴隷としてではなく、愛する兄弟として迎えいれてほしいと書き送っている(「新約聖書 フィレモンへの手紙」参照)。

 奴隷の身分を解かれたオネシモは、ローマに戻ってパウロとともに宣教し、その後パウロの手紙(「コロサイの信徒への手紙」)を持ってコロサイに派遣された。
 ローマ皇帝ドミチアヌスの迫害の際、殉教したと伝えられる。



17日 聖母のしもべ会7聖人

13世紀中ごろ-14世紀

 7人はイタリア、フィレンツェの貴族であった。1233年8月15日(聖母マリアの被昇天の祝日)に聖母マリアが各人に現われ、ともに神に従って生活を始めるように言われたことを機に、修道生活を始めた。この生活はいつしか評判になり、多くの人びとが教えを求めに訪れたので、彼らはモンテ・セナリオに行きそこで修行を続けた。アウグスチヌスの会則によるたく鉢修道会へと発展してゆき、聖母マリアへの信心を広めていたことから「聖母のしもべ」と呼ばれるようになった。

 多くの人が入会し、1250年にはトスカーナ市に「聖母のお告げの教会」聖堂を建てた。7人は生誕、死去も異なるが、みな同じ墓に葬られた。

 7人の名前
  ボンフィリオ・ディ・モナルディ
  ヨハネ・ディ・ボナジュタ
  ベネディクト・デル・アンテラ
  バルトロメオ・デリ・アミディ
  リコヴェロ・ディ・ウグチオネ
  ジェラディノ・ディ・ソステショ
  アレキシオ・ファルコニエリ



18日 聖クリスチアーナ・オリンガ修道女

1237年-1310年

 クリスチアーナは、イタリア、フィレンツェの貧しい家庭に生まれた。幼いころに両親に先立たれたため、農家に引き取られ、そこで熱心に働いた。いつも感謝の心を忘れない美しい彼女は人びとから慕われ、年ごろになると多くの縁談があった。しかし生涯を独身で神にささげたいと望み、ついに村を出て、町の一家庭で住み込みのお手伝いとして働いた。クリスチアナは読み書きこそできなかったが、神への知識はますます研ぎ澄まされ、人びとを感化していった。

 ある日、祈っていると「故郷で修道院を設立しなさい」との促しを受け、多くの困難に遭いながらも修道院を建てた。彼女のもとには志のある娘たちが集まり、貧しい人びとなどに献身的に尽くした。彼女自らは、院内の目立たない仕事を通して神と人びとに奉仕しその生涯をささげた。

 お手伝いの守護の聖人とされている。



19日 聖コンラド(ピアチェンツァ)修道者

1290年-1351年

 コンラドは、イタリア、ピアチェンツァの裕福な貴族の家に生まれた。狩猟好きであったコンラドは、ある日、やぶに逃げ込んだ獲物を追い出そうとして火をつけた。その火はたちまち民家にまで広がり、近くにいた農夫が放火の罪を着せられて、死刑の判決を受けた。良心のかしゃくに苦しんだ彼は、自首し、刑を受け多大な賠償金を払った。
 これですべての財産を失ったが、この事件によって彼の心の目が開かれ、妻とともに神に生涯をささげることを決心した。ともにフランシスコ会第3会に入り、その後コンラドはシシリア島のノトの山で祈りと苦行の生活を送った。彼のもとには多くの人がいやしを求めに訪れた。

 彼の遺体はノトの聖ニコラス教会に眠っており、現在も多くの巡礼者が訪れている。



20日 聖ヨセフ(レオニッサ)司祭

1556年-1612年

 ヨセフは、イタリア、アッシジ近郊のレオニッサに生まれた。幼いころ両親に先立たれたヨセフは、大学教授の叔父に引き取られて育てられた。学問の才能にも恵まれ、前途を有望視されていたが、より高い理想である神との生活を求めてカプチン会(フランシスコ会の流れをくむ修道会)に入った。

 1587年に会からトルコに派遣され、イスラムへの宣教に力を尽くしたが、皇帝に捕えられて拷問を受けた後、国外に追放された。イタリアに戻ったヨセフは20年の間、骨身を惜しまずに各地を説教して歩き、多くの人を信仰に導いた。



21日 聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士

1000/1007年-1072年

 ペトロは、イタリア、ラヴェンナの貧しい家庭に生まれた。幼くして両親に先立たれたペトロは、長兄の家に引き取られたがひどい扱いを受けた。見かねた司祭である次兄が弟を引き取り、学問の道に進ませた。ペトロは大学卒業後、しばらく故郷で教鞭を取り、1035年にベネディクト会に入った。

 彼の神に対する熱心さは修道院でも尊敬され、副院長を務めるなど、院内の改革を積極的に行った。また教皇の依頼を受け、各地を回って教会の改革に力を尽くした。特に聖職売買の腐敗に対して鋭い批判をした。彼の深い学識と徳の高さは多くの人びとに影響を与え、1057年に枢機卿に任命された。教皇使節として重要な役割を果たし、教会の発展に貢献した。雄弁家であり、多くの著書を残している。



22日 聖ペトロの使徒座

 12使徒の1人で、使徒の頭であった聖ペトロは、キリストから「あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16.18)と言われ、教会の礎としての使命をゆだねられた。彼は教会の最初の司教としてアンチオキアに使徒座を置き、その後ローマへ宣教に行き、バチカンの丘に使徒座の基礎を築いた。

 古代ローマでは、2月22日には亡くなった家族を記念する習慣があり、初代教会もその慣習を取り入れ、教会の礎である聖ペトロを記念していた。4世紀に、 聖アンブロジオ(12.7参照) は「ペトロがいるところに教会がある。教会があるところに、キリストがいる」としてこの日の意味を明確にし、最高牧者としてのペトロの使命を浮き彫りにした。

 聖ペトロの使命は、今日まで代々の教皇(現在266代教皇フランシスコ)に受け継がれている。



23日 聖マルガリタ(コルトナ)

1249年ごろ-1297年

 マルガリタは、イタリア、トスカーナ地方のラヴィアノに生まれた。若いころモンテプルチャーノの貴族と知りあい息子をもうけるが、正式に結婚をしないまま暮らしていた。9年後のある日、内縁の夫を殺害されて絶望したマルガリタは、息子と一緒に生家に戻ろうとしたが、父から拒絶された。途方に暮れた彼女は、フランシスコ会に身を寄せ祈りと償いの生活を始めた。

 神への愛に生きることの喜びを知った彼女は、フランシスコ会第3会員として受け入れられ、祈りと節制と、貧しい人びとや病人の看護に献身的に尽くし、1286年には市からの援助で病院を建設した。マルガリタの息子もフランシスコ会の修道士となって生涯を神にささげた。



23日 聖ポリカルポ司教殉教者

70年ごろ-155年ごろ

 聖ヨハネ(イエス・キリストの12使徒の一人、12月27日参照)の弟子であるポリカルポは、スミルナ(現在のトルコの近く)の司教であった。彼は近くの教会の信徒たちに手紙を送り、彼らを励まし、また異端のグノーシス派と戦い、正当信仰の擁護に努めた。

 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスのキリスト教迫害のときに捕えられ、信仰を捨てるように強いられたが、ポリカルポは「わたしは86年間、キリストに従ってきましたが、主はただの一度もわたしにひどいことをしませんでした。どうしてわたしの王であり救い主である方を汚すようなことができましょう」と答えた。そして火あぶりの刑で、炎に包まれながらも神を賛美し殉教した。



24日 聖エセルバート1世

550年ごろ-616年

 イギリスの王であったエセルバートは、フランク王国の王女ベルタと結婚した。キリスト教徒であった妻の影響もあり、王は597年にローマ教皇グレゴリオ1世からイギリスに宣教のために派遣されたアウグスティヌス(5月27日参照)たち宣教師を快く迎え、その活動を認めた。そして王自らも洗礼を受け、近隣の君主たちにもキリスト教を広めた。

 カンタベリーをはじめロチェスターなど各地に聖堂や修道院を建設し、政治についても法律を成文化するなどの貢献した。



25日 聖ワルブルガ

710年ごろ-779年

 ワルブルガは、イギリスのウェセックスの貴族の家に生まれた。幼いころからイングランドのウィンボーンの修道院で教育を受けた。彼女の兄はウィリバルドと、ウィニバルド(12月18日 参照)であり、ゲルマン(ドイツ)へ宣教に行ったボニファチオ(6月5日 参照)に協力するため同地に派遣された。彼女もフランクフルトの修道院で医術を学び、後に兄たちが設立したハイデンハイムの女子修道院の院長を務めた。761年に兄ウィニバルドが亡くなってからは、男子と女子の修道院の長として会員を導いた。

 兄妹たちはドイツ宣教における中心人物であり、みな聖人である。
 彼女はゲーテ『ファウスト』に出てくる「ワルプルギスの夜」のワルプルギスの名でも知られている。彼女の祝日は2月25日であるが、夏の始まりを祝う異教の祭と同化して5月1日にも祝われた。



26日 聖ポルフィリオ司教

347年ごろ-420年

 ポルフィリオは、マケドニアに生まれた。25歳のときエジプトに行って5年間修道士として修行し、その後パレスチナに行くが、重い病にかかった。ポルフィリオは余生をイエスがたどられた道を歩もうと決心し、エルサレムに巡礼に出たことで奇跡的に病が治った。彼は持っていた財産をすべて貧しい人びとに与え、自らは靴を作ることで生計を営んだ。

 392年に司祭となり、3年後に異教徒が多いガザの司教に選ばれて宣教に力を尽くした。当時の東ローマ皇帝アルカディウスの支持を得てキリスト教の宣教活動をますます推進した。

 ポルフィリオは395年までイエス・キリストがはりつけにされた聖十字架の遺物を保管していたことで知られている。



27日 聖ガブリエル・ポセンティ

1838年-1862年

 ガブリエルは、イタリア、アッシジの裕福な信仰深い家庭に生まれ育った。才能に恵まれていた彼は、上流社会の仲間入りをし、名誉と富を求める生活に甘んじていた。しかし重い病にかかったことで今までの人生を振り返り、より超越的なものを求める生活として修道生活をしたいと誓った。

 病が全快したガブリエルは18歳で御受難会に入り、「悲しみの聖母のガブリエル」という修道名を与えられた。以後6年間、祈りと苦行によって十字架につけられたイエス・キリストの苦難を味わい、黙想した。また悲しみの聖母に対する優れた信心を表した。彼はどんな小さなことでも神に対して忠実であることをモットーに自己の聖化に励んだ。

 彼の遺体は、イタリアのグラン・サッソの修道院に眠っており、現在では有名な巡礼地となっている。



28日 聖レミジオ司教

437年-535年ごろ

 レミジオは、フランス、ランスの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。ランスで教育を受け、豊かな学識と優れた人格の持ち主であったレミジオは、多くの人びとから慕われ、458年にわずか21歳で司教に選ばれた。自分には厳しく人びとには慈悲深く、当時ガリア地方に広まっていた異端アリウス派と戰い正当信仰を擁護し、多くの人びとを信仰に導いた。

 フランク王国クロヴィスもその1人であり、熱心なカトリック信徒であった妻のクロティルジス皇后(6月3日 参照)の影響もあって496年にレミジオから洗礼を受けた。王はレミジオの指導を受けながら、熱心に信仰を守り国を治め教会や修道院の建設を援助した。

 その後、レミジオは教皇使節として宣教に力を尽くし、生涯を神と人びとのためにささげた。「フランク人の使徒」と呼ばれている。



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