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聖人カレンダー

9月の聖人

1日 聖ジル修道院長

?-720年ごろ

 ジルは、ギリシャのアテネの裕福な家に生まれた。幼くして両親に先立たれ、多くの財産を相続し、その地方でも有名な人物に成長した。しかし、こうした生活を嫌い、全財産を貧しい人に分け与え、自らはフランスのローヌ河口の洞くつで隠遁生活を始め、植物の根と水とミルクという質素な生活を送った。ある日、西ゴート王フラヴィウスが狩猟をしていたときに、ジルと出会い、その徳に心を動かされて修道院を建てる援助を得た。ジルのもとに多くの弟子が集まり、修道院は発展した。彼の墓の近くに建てられたサン・ジル街は、有名な巡礼地として知られている。彼は、てんかんや不妊症に苦しむ人たちの守護の聖人といわれている。



2日 聖パウロ(エジプト)修道士

228年ごろ-341年ごろ

 パウロは、エジプトのデバイスに生まれた。ローマ皇帝デキウスの迫害下に、異教徒である姉の夫の密告を逃れるため、荒れ野に身を隠した。パウロは、洞くつの中で祈りと苦行の生活を送り、60年もの間、誰にも会うことがなかった。彼のもとに毎日、カラスがパンを運んだという。113歳になったときに、修道生活の父と呼ばれる聖アントニウスから見つけ出されたといわれている。



3日 聖グレゴリオ1世教皇教会博士

在位590年-604年

 グレゴリオは、ローマの裕福な貴族の家に生まれ、哲学、法学などを学び、キリスト教の書物にも親しんでいた。

 ローマ市長官であった父が、公職を退いて修道士になったことから、彼も家を改築してベネディクトの会則を基礎に、祈りの生活に励んだ。数年後、教皇ペラギウス2世のもとで助祭となり、コンスタンティノープルに教皇特使として派遣された。そこで6年間の任務を果たしつつ、ベネディクト会の修道士として生活した。

 その後教皇に選出されたグレゴリオは、教会内外の教化に励み、教皇とは「神のしもべのしもべ」であると称して、教会のために力を尽くした。596年には、ベネディクト会のカンタベリーのアウグスチヌスと40名の宣教師をイギリスに派遣し、このため多くのアングロ・サクソン人がキリスト教徒となった。また彼は、典礼と教会音楽の刷新にも取り組んだ。このときに作った聖歌の基礎が、「グレゴリオ聖歌」と呼ばれる。多くの著作を残したが、中でも「ヨブ記註解」などが有名である。彼の働きは、教皇権の強化と教皇領の拡大をもたらし、中世社会の実現に大きな影響を与えたので、「大教皇」の名を持っている。



4日 ヴィテルボの聖ローザおとめ

1235年-1252年

 ローザは、イタリアのヴィテルボの貧しい家に生まれた。幼いころから貧しい人びとのことを心にかけ、世話をし、ローザ自身は祈りの生活を大切にして苦行に励んでいた。たびたび聖母マリアが彼女に現われた。彼女は聖母の勧めに従い、1247年ころにフランシスコ会第三会(在俗会)に入った。

 当時、ドイツ皇帝フリードリヒ2世と教皇イノケンティウス4世が争っていた。ローザは平和のために力を尽くし、各地を回りながら説教をして多くの人びとを感動させ、信仰に立ち戻らせた。しかし彼女の影響力を恐れた皇帝は、1250年にローザをヴィテルボから追放した。皇帝が亡くなった後、故郷に戻り、クララ会のバラのマリア修道院の近くで数人の仲間とともに暮らした。

 1258年に、彼女の遺体はバラのマリア修道院に移されたが、遺体は現在も腐敗せずに残っている。



5日 聖ラウレンチオ・ユスチニアノ大司教

1381年-1455年

 ユスチニアノは、イタリアのヴェネチアの貴族の家に生まれ、信仰深い母親に育てられた。ユスチニアノは、名誉や快楽に心を引かれたが、19歳のころ回心し、司祭となって神に生涯をささげたいと望んだ。そして司祭の伯父がいる聖ジョルジョ修道院に入って、勉学、祈り、苦行の生活をし、物乞いをする勤めも果たした。司祭になった後、1433年にカステロの司教に任命され、教区改革に力を尽くし、51年には、ヴェネチアの初代総大司教に任命された。ユスチニアノ自身は、生涯キリストに倣った貧しい生活をし、亡くなるときも「イエス・キリストが堅い木の十字架で死なれたのだから」と言って、堅いベッドの上で息を引き取った。



6日 聖カグノールド司教

?-633年

 カグノールドは、聖コロンバンとともに宣教に励んだ人物であり、コロンバンが建てたフランスのリュクセイの修道院の司祭であった。この修道院からは多くの聖人が出て、人びとの信仰生活を導き7世紀には、フランスで最も重要な修道院といわれた。
 コロンバンは、アイルランドの厳格な修道規則に従って儀式を重んじたため、フランスのメロヴィング王家の反感を買い、さらに610年にテオドリック2世王の不道徳な行為を批判したことで、フランスを追放された。そのとき、カグノールドもコロンバンに従ってボーデン湖の近くに移り、宣教師として働いた。 612年以後は、イタリアのボッビオの新しい修道院で暮らした。615年にコロンバンが亡くなった後、カグノールドはラオン市の司教となって、教会のために力を尽くした。



7日 聖ソゾン殉教者

4世紀ごろ

 ソゾンは、シチリアに生まれで、名前をタラシオといった。羊飼いをして暮らし、キリスト教の迫害下にあっても洗礼を受け、名前を洗礼名のソゾンと変えるほど熱心であった。ある日、ソゾンはキリストの夢を見、羊を敵から守るための武器を捨て、羊飼いの杖だけを使うように命じられた。彼は、町の神殿にある金の偶像を羊飼いの杖で砕き、貧しい人びとに与えた。ところが、あるキリスト信者から偶像を壊したとの訴えがあったので、ソゾンは名乗り出て捕えられた。彼は役人からのどんな責め苦にも屈せず、その勇気は役人たちを感動させ、ソゾンを赦そうという思いに至らせた。群衆のために笛を吹くことを条件に釈放すると言われたが、彼は神のためにしか笛を吹かないと拒否したため、処刑された。



8日 聖アドリアノと聖ナタリア殉教者

?-304年

 ローマ皇帝マキシミアヌス付きの役人であったアドリアノは、迫害を受けるキリスト信者たちの忍耐深さとその勇気に感動し、「洗礼は受けていないが、信者だから仲間に入れてくれ」と叫んだ。そのため、ただちに捕えられた。アドリアノは結婚したばかりであったが、これを聞いた妻ナタリアは夫の行為を誇りに思い、こっそりと処刑場に行き見守った。アドリアノは残酷にも体を切り刻まれ、ナタリアは彼の手を持ち帰ったという。
 その後、ナタリアは夫の刑を執行した役人から結婚を求められたが、きっぱりと断わり、コンスタンチノープルの近くのアルジロポリスでその生涯を送り、夫の傍らに葬られたといわれる。



9日 聖ペトロ・クラベル司祭

1580年-1654年

 クラベルは、スペインのカタロニアに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。幼いころから司祭になることを望み、バルセロナ大学で学んだのちに1602年にイエズス会に入った。勉学のためにマジョルカの修道院に派遣され、そこで聖アルフォンソ・ロドリゲスと出会った。アルフォンソは、クラベルに新大陸での宣教の可能性を熱く語り、それを聞いたクラベルは自分の使命を悟って、宣教師となることを決心した。1610年、神学生としてコロンビアのカルタヘーナへ行き、黒人奴隷の悲惨な状態を知って、生涯彼らの救いのために働きたいと思った。1616年に司祭になり、「大切なことは唇で話すことでなく、手で話すことだ」と言って、奴隷たちに薬や食物などを与えたり、キリスト教について教えるなど、力を尽くして働いた。クラベルは黒人の保護者といわれている。



10日 日本205福者殉教者

 日本205福者殉教は、江戸時代初期の205人の殉教者たちです。1867年に教皇ピオ9世によって福者にあげられた。

 長崎での殉教者 151人、大村28人、有馬9人、小倉5人、島原4人、江戸3人、その他 雲仙、田平、壱岐、京都、仙台各1人の205人である。

 国籍は、日本が153人、スペイン 24人、ポルトガル 5人、イタリア 5人、メキシコ 3人、オランダ、ベルギーが各1人、豊臣秀吉の朝鮮侵攻で朝鮮半島の出身者が13人で、司祭13名、修道者20名がた。
 また、女性が14人、少なくとも6人は子どもであった。

 1968(昭和43)年、列福式から100周年記念にあたり、「斬罪小屋」の立て札があった大村の殉教地、放虎原の処刑場跡に、大村の信徒たちによって顕彰碑が建立された。



11日 福者ディエゴ司祭と殉教者たち

 ポルトガルに生まれたディエゴは、17歳のときにイエズス会に入り、1609年に来日した。天草、京都、大阪で宣教したが、家康の追放令でマカオに退き、再び来日して各地を回り奥州に着いた。そこでは、同会のアンジェリス司祭が熱心に宣教をしていて、互いに再会を喜び合った。その後、日本人の司祭・修道士の応援もあり、東北を巡回し、共に宣教活動に励んだ。

 1624年の江戸の大殉教が終わったころ、仙台藩にもキリシタン迫害が起こった。ディエゴは信者とともに捕えられ、仙台の信者9名とともに広瀬川で殉教した。毎年2月、仙台の信徒たちは、殉教碑のある広瀬川の河原に集まって、殉教者たちを記念している。



12日 福者アンジェリス司祭と殉教者たち

1567年-1623年

 アンジェリスはイタリアのシチリアに生まれ、18歳でイエズス会に入り、日本への宣教を志していた。西インドで宣教したのちにポルトガルに行き、31歳のときに司祭となった。インド、マラッカに渡り、1602年に来日して、伏見、後駿府、江戸で宣教活動をした。しかし1614年のキリシタン禁教令によって江戸を追放され、翌年、仙台藩の後藤壽庵の招きで仙台に行った。その後蝦夷(現在の北海道)に渡って、キリスト信者を励まし、再び江戸に戻った。

 彼は、日本の習慣を大切にし、貧しい人や病人をいたわるなどして、多くの日本人から親しまれていた。1623年、徳川家光によるキリシタン弾圧によって捕えられ、小伝馬町の牢に送られた。そしてジョアン原主水、フランシスコ・ガルベス司祭、シモン遠甫ら50人の信者とともに火刑にされ、殉教した。家光はこの処刑を皮切りに、諸大名に対しキリシタン処分を命じ、過酷な弾圧の時代が始まったのである。「江戸の殉教者」の記念碑は、カトリック高輪教会内にある。



12日 マリアのみ名

 聖ヨアキムと聖アンナはユダヤの習慣に従って、聖母の誕生後8日目に、「マリア」と命名した。

 この記念日は、1513年にスペインで祝われたのがはじまりだと言われている。1683年、オスマン帝国がヨーロッパに進軍し、キリスト教をおびやかされるようになった。ヨーロッパ連合軍を指揮していたポーランドの王、ヤン3世ソビェスキは自分自身と兵士たちをマリアにゆだねて戦いに臨み、勝利したのが、9月12日だった。教皇インノチェンチオ11世はこの勝利に感謝し、主の降誕の8日間の日曜日に全教会で祝うよう規定した。その後1911年、教皇ピオ10世のときに9月12日と定められた。

 マリアという名は、ヘブライ語では「婦人」を意味し、中世には「海の星」と解釈された。聖ベルナルドは、「マリアがヤコブから出た輝く星であり、全世界を照らし、信じる人びとの道を照らす星である」と述べている。

 マリアの名を呼ぶことで、神の母であるマリアを愛し、もっと親しくなるよう、教会は招いている。



13日 聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士

347年ごろ-407年

 ヨハネ・クリゾストモは、シリアのアンチオキアに生まれ、有名な学者リバニオスから修辞学を学び、また神学やギリシャ哲学も修めた。はやくから修道生活を志して隠遁生活を始め、386年に司祭となった。すばらしい説教によって人びとを感動させたことから、後世の人びとから「クリゾストモ」(黄金の口)とたたえられた。398年にコンスタンチノープルの総大司教に選ばれ、当時の社会道徳の乱れを正すように導いたが、ヨハネの厳しい道徳的態度は教会内外からの反発を買い、403年の司教会議によって小アジアに追放された。そこで、ヨハネは多くの手紙・著作を書いた。

 「死は安息であり、労働と世間の悩みからの解放です。あなたの家族の1人が亡くなっても絶望してはいけません」 (聖ヨハネ・クリゾストモ)



14日 聖ノトブルガ

1265年-1313年

 ノトブルガは、オーストリアのチロルの貧しい農家に生まれ、18歳のときにヘンリー・ラッテンブルグ伯の城に手伝いとして雇われた。彼女はよく働き、いつも明るく、皆から好かれた。城に貧しい人たちが物乞いをしに来るのを見て、ノトブルガは、食べ物の残りをその人たちに与えた。しかし、そのことをよく思わなかった夫人から追い出され、近くの農家に住み込みの手伝いとして働くようになった。ある日曜日に、ミサに出るために麦刈りの仕事を断わったことで主人の怒りにふれ、彼女は神に正しさを証明してもらおうとして、鎌を高く差し上げて手を離し、鎌を空中にとどめたといわれる。そのため彼女の像は、鎌を持って描かれている。その後、ヘンリー伯の夫人が亡くなり、ヘンリー伯が再婚すると、家事をする女性が必要となり、ノトブルガが呼び戻された。彼女は亡くなるまでそこで働き、貧しい人たちに施しを与え、城のためにも貢献した。彼女は、雇い人の保護者として親しまれている。



15日 悲しみの聖母

 イエスが十字架の苦しみを人びとの救いのために耐え忍ばれたように、マリアもその救いの業に参与された。聖母の生涯には、喜び、苦しみがあり、昔からキリスト信者たちはそれらをいろいろな形で記念してきた。15世紀に、ドイツのケルンで悲しみの聖母の祝日が行われ、次第に広まり、1817年に教皇ピオ7世によって全教会の祝日として定められた。  ミサでは、キリストの死に対する聖母マリアの苦しみだけを記念しているが、昔から信者たちは、他の苦しみも加えて、7つの苦しみとして具体的に祈っていた。聖母の苦しみは、キリストが生まれてすぐに、エルサレムの神殿で預言者シメオンから言われた「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉の実現だった。

 また、悲しみの聖母について多くの傑作が生まれ、中でもミケランジェロのピエタ像やヤコポネ・ダ・トディのスタバト・マーテルの詩と曲が有名である。



16日 聖ニニアノ司教

360年ごろ-432年ごろ

 ニニアノは、イギリスのカンブリアの族長の家に生まれた。洗礼を受けた後ローマに行って学問を修め、アングロ・サクソン人たちへの宣教をしようと決心した。394年に教皇によって司教に叙階された。イギリスへの帰路、トゥールの聖マルティノと出会い、彼の影響を受けた。帰国後、ホイットホーンに自分の司教区を作り、石造りの教会を建てた。後にその教会は「白い家」と呼ばれて有名になり、マルティノが亡くなったとき彼にささげられた。ニニアノは近くに修道院を建て、グランビアンに住むピクト人たちが偶像崇拝をやめ、真の信仰を受け入れるように説いて各地を回った。この修道院は、6世紀にアイルランド人修道士たちのための霊性教育センターとなった。

 彼は、ホイットホーンの使徒、またピクト人の使徒と呼ばれている。



16日 聖コルネリオ教皇

?-253年(在位251-253年)

聖コルネリオ教皇

 聖コルネリオはカルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれた。キリスト教徒ではなかったが、成人してから洗礼を受け、司祭への道を志した。後に叙階され、249年ごろ、カルタゴの司教になった。謙遜で善良なコルネリオは、デキウス帝の迫害によって苦しむ信徒たちを心にかけ、司教として励ました。250年1月20日に教皇ファビアノが殉教し、14ヶ月後、コルネリオが教皇に選ばれた。

 コルネリオの在位中、「大罪のゆるし」と「迫害のときに棄教した信徒の教会復帰」が問題となった。コルネリオは「司教によれば、大罪をゆるすことができる」と主張し、カルタゴの司教チプリアノがこれを支持した。しかし、ノヴァティアヌスはコリネリオの主張に反対し、自らが教皇であると宣言した(対立教皇)。

 251年、コルネリオはカルタゴに司教たちを集め、棄教者がゆるしの秘跡を受け、償いのわざを行えば教会に戻ることができることを確認した。これによって、ノヴァティアヌス派は排斥された。

 同じ9月16日に記念するチプリアノ司教は、教皇コリネリオをあらゆる面でよく助けた。チプリアノは、教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、司教、信徒たちが一致することの大切さを強調した。

 デキウス帝の死後、ペストが流行し、民衆の不満は、キリスト教徒に向けられた。そのため、トレボニアヌス帝もキリスト教を弾圧し、コリネリオは捕らえられた。彼は、追放されたチェントゥリチェッレ(現在のチヴィタヴェッキア)で253年に亡くなった。



16日 聖チプリアノ司教殉教者

?-258年

聖チプリアノ司教殉教者

 聖チプリアノは、カルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれた。彼は高い教育を受け、修辞学の教師、弁護士をしていた。貧しい人に持っているものを施し、洗礼を受ける前から、貞潔の誓いを立てていた。254年、彼は洗礼を受け、2年後司祭に叙階され、その後カルタゴの司教になった。

 当時、デキウス帝の迫害で棄教したキリスト教徒が、教会に戻ることが問題となった。教皇コルネリオは「司教によれば、大罪をゆるすことができる」と主張し、チプリアノがこれを支持して、ノヴァティアヌス派に対抗した。また、ノヴァティアヌスによって分裂した教会で受けた洗礼について、チプリアノはその有効性を認めなかった。

 チプリアノ司教は、同じ9月16日に記念する教皇コリネリオをあらゆる面でよく助けた。チプリアノは、教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、司教、信徒たちが一致することの大切さを強調した。

 ウァレリアヌス帝(在位253年-260年)の迫害のとき、チプリアノはチュニジアのコルバに追放され、投獄された。258年、「神に感謝」ということばとともに、斬首によって殉教した。彼は優れた著作家でもあり、『主の祈りについて』『善行と施しについて』などがある。



17日 聖ヒルデガルト修道女

1098年-1179年

 ヒルデガルトは、ドイツのベッケルハイムの貴族の家に生まれ、福者ユッタがいるベネディクト会の修道院で教育されて、1116年にこの修道会の会員となった。36歳のときに、ユッタの後を継いで修道院長になった。彼女は、幼いころから神秘的な体験をし、司祭からも勧められて『Scivias』(道を知る者)という書を著わした。また、教皇からも彼女の示現(ヴィジョン)は真正なものとして認められた。

 1147年に、18人の修道女とともにビンゲン近くのルペルツベルグに修道院を移し、大きな修道院に発展させた。ヒルデガルトは、会の修道女を導くとともに、国王や聖職者たちに手紙を書いたり、貧しい人びとや病人の世話をしたりするなど、ドイツ各地を巡って人びとの信仰を鼓舞し、大きな影響を与えた。

 彼女は、ドイツにおける最初の女性神秘家であり、科学的視野のある博物学や医学について著作し、聖人伝や賛美歌などを作った。



17日 聖ロベルト・ベラルミン司教教会博士

1542年-1621年

 ロベルトはイタリアのモンテプルチャーノで10人兄弟の3番目に生まれた。彼は、教皇マルケルス2世(在位1555年に即位して、3週間後に急逝)の母方の甥にあたる。ラテン語に堪能でバイオリンを弾くなど、才能に恵まれ、1560年にイエズス会に入った。パドバで神学を学んだ後、1570年に叙階され、ベルギーのルーヴァンでトマス・アクィナスの『神学大全』を教え、有名な説教家となった。このころロベルトは、神の恵みと人間の自由意志の問題について、人間の意志の努力によって徳を積み、救いに達しようというペラギウス的発想を唱えた、ベルギーの神学者、バイウスと対立した。プロテスタントの宗教改革者たちとの論争に備え、教会史、教父学、聖書学を研究し、体系づけた。その後彼は、1576年にイエズス会のナポリの管区長になり、1598年、クレメンス8世のときに枢機卿になった。彼は、神学者として公教要理をまとめて教会に大きな影響を与える一方、貧しい人びとを援助するために、自らは質素な生活を営んだ。

 優秀な学者であった彼は、ベニスでの反聖職者勢力との争い、そしてプロテスタントであるイギリスのジェームズ1世との対立の際、「教会と国との関係において、権威は、民衆のなかにあって、神から与えられたものである」と主張し、使徒座を擁護した。思想上、ロベルトはプロテスタント神学者たちと対立したが、彼らのために熱心に祈り、個人的に非難することはなかった。
 トレント公会議でヴルガタ訳聖書の改訂版が完結することが望まれ、ロベルトは最終委員としてたずさわった。

 彼は、霊的指導者として聖アロイジオ・ゴンザガを助け、聖フランシスコ・サレジオが聖フランシスカ・ド・シャンタルと設立した「聖母訪問修女会」が、聖座から正式認可されるために、尽力した。

 晩年には、信心や教訓的な多くの著作を残し、1621年に亡くなった。



18日 聖ヨセフ(クペルティノ)司祭

1603年-1663年

 ヨセフは、イタリアのナポリ近郊のクペルティノの貧しい家に生まれた。病弱で、普通の子どもよりも知恵が遅れており、口をぽかんとあけていたので、人びとからもあざけられることが多かった。仕事に就くとすぐに解雇され、修道士になることを望んで修道会に入るが、すぐに出されるなどして、ようやくラ・グロッテラのフランシスコ修道院から、馬丁として受け入れられた。ここで、ヨセフは祈りと断食の修行をよく行い、1628年に司祭となった。そのころから、彼は神秘体験をし、身体が宙に浮かぶことが度々おこり、「空飛ぶ修道士」と呼ばれて、人びとの訪問を受けるようになった。そのため教会の権威者たちは、ヨセフをピエタロッサの修道院に移して、人びとの目にふれないようにした。彼は死ぬまで監禁されていたが、決して不平を言わずすべてを耐え、神にのみ信頼を置いていた。ヨセフはこの徳ゆえに、1753年に聖人とされた。飛行機の操縦士と乗客の保護の聖人といわれている。



19日 聖ヤヌアリオ司教殉教者

?-305年

 ヤヌアリオは、イタリアのベネヴェントで生まれた。ローマ皇帝ディオクレティアヌスの迫害のときに、その地の司教であった彼は、数人の助祭や信徒とともに捕えられた。ヤヌアリオは信徒たちを励まし、ポッツオリに送られ、そこで殉教した。遺体は、413年にナポリの郊外のカタコンブに移された。彼はナポリの守護の聖人といわれ、その絵はシュロの葉と開いた本を持って描かれている。



20日 聖アンデレ金と同志殉教者

1821年-1846年

 韓国にキリスト教が伝わったのは18世紀の終わりごろで、年に数回中国に派遣される使節が持ち帰った書物によるといわれている。アンデレは、カトリック信者の父、清俊(1839年殉教、聖人)のもとで、幼いころから信仰深く育てられた。1836年、フランスの宣教師モバンから洗礼を受け、彼の勧めで、崔良業(チェヤンオブ)ら2人の青年とともにマカオ神学校に入った。アンデレは、韓国で西洋の学問を修めた最初の人物であった。1845年に、上海で司祭となり、キリスト教迫害が厳しい韓国に戻り宣教活動をしたが、翌年捕えられて斬首刑となった。

 韓国では1870年までに約2,000人の信者が殉教した。1984年に教皇ヨハネ・パウロ2世が韓国を訪問した際、他の102人の殉教者とともにアンデレも聖人とされた。アンデレは、韓国の司祭の保護者とされている。



21日 聖マタイ使徒福音記者

1世紀

聖マタイ使徒福音記者

マタイは、カファルナウムの町で、ユダヤの徴税人として働いていた。当時の徴税人は、ローマの手先となって同胞からお金を取る者として、罪人とみなされ人びとから疎まれていた。ある日、収税所の前を通られたイエスから「わたしに従いなさい」と声をかけられてイエスに従い、12使徒の一人となった。

 マタイは、福音書を当時のユダヤ社会で使われていたアラマイ語で著わし、旧約の預言がキリストにおいて実現されたことを主張し、キリストが真の救い主、神であることを強調した。特にイエスの言葉を「山上の説教」として系統だててまとめている。その後、マタイがどのような足跡をたどったかは明らかでないが、エチオピアで殉教したとされている。



22日 聖トマ(ヴィラノヴァ)大司教者

1488年-1555年

 トマは、スペインのヴィラノヴァに生まれた。アルカラで勉強した後、サラマンカ大学で道徳神学を教え、1516年にアウグスチノ会に入り、司祭となった。管区長として、多くの宣教師を新大陸に送った。また、ドイツ皇帝カール5世の聴罪司祭として相談に乗り、1544年にヴァレンシアの大司教となってからは、教区内の教会改革をするとともに、貧しい人たちの救済に努め、学校・病院・施設を建てた。アウグスチノ会の学問研究の保護者といわれる。



23日 聖テクラおとめ

1世紀

聖テクラおとめ

 テクラは、小アジア(トルコ)のイコニオンの裕福な家に生まれた。いろいろな学問を勉強し、18歳のときには婚約していた。そのころ、この町を宣教のため訪れた聖パウロの説教を聞き、そのすばらしさに感動したテクラは、キリストの愛の深さを知り、すべてをささげようと、婚約を破棄することを決めた。そのため婚約者がパウロを訴えたので、パウロは追放され、テクラは処刑されることとなった。しかし彼女は奇跡的に救われ、パウロに従ってその宣教に協力し、各地を転々としてアンチオキアに行った。この町でもある役人から結婚を申し込まれたが、拒否したために再び訴えられ、処刑されることになった。しかし神から守られているのを証明するかのように、どんなにテクラを処刑しようとしても失敗に終わった。そのため民衆も、彼女の命を助けてくれるように総督に嘆願し、晴れて自由の身となった。その後、彼女のもとには教えを求めて多くの人びとが集まったといわれる。テクラはセレウキアで亡くなったとされ、墓の上には大きな教会が建てられている。彼女は、初代教会以来、多くの人びとから尊敬を受けている。



23日 聖ピオ(ピエトレルチナ)司祭

1887年-1968年

聖ピオ(ピエトレルチナ)司祭

 フランチェスコ・フォルジョーネ(後のピオ神父)は、1887年5月25日、南イタリアのベネヴェント県ピエトレルチナに住む、農家の家庭に生まれた。7人兄弟の4番目として育った彼は、信心深い母親の影響を受けて、幼いころから神に一生をささげたいと望むようになった。1903年、フランチェスコが15歳のときにカプチン会に入会し、ピオという修道名を受けた。

 修道会で勉学に励んだ後、1910年司祭に叙階された。彼は聖痕を受けた聖人として有名であるが、それは、1918年9月20日のミサ後に感謝の祈りをささげているときだった。ピオ神父の前に現れたイエスの手足には傷があり、その示現が終わると、神父の手と足にも聖痕が現れた。

 ピオ神父が聖痕を受けてから、多くの人びとが彼のもとにやって来た。毎朝5時にささげるミサにはたくさんの人が集まり、時には一日に10時間も告解を聞いた。告解をする人がくわしく言わなくても、彼はその人がどのように生活しているかを知っていた。

 ピオ神父は聖痕の痛みとともに断食や徹夜の祈りをささげて、厳しい生活を送った。ミサと聖体を大切にし、ロザリオを決して手から離すことはなかった。多くの人がピオ神父の取り次ぎによって、恵みや病のいやしを受けた。彼のミサにあずかった人は熱心になり、興味本位で神父に会いに来た人も、心を動かされた。

 1968年、足が弱ったため車椅子を使いはじめ、同じ年の9月23日、ロザリオを手にして、「イエス、マリア!」と唱えながら、平和のうちに生涯を終えた。81歳だった。

 1999年に列福され、2002年没後34年という異例の早さで、列聖された。



24日 聖ノエル・シャバネル司祭殉教者

1613年-1649年

 ノエルは、フランスのメンデに生まれ、17歳のときにツールーズのイエズス会に入った。1641年に司祭となって、カナダへ派遣された。当時のカナダは、ヒューロン、アルゴンキン、イロクワなどの遊牧民が勢力争いをしていた。ノエルは、1644年にヒューロン地方の遊牧民のところに行き、先にそこで宣教活動をしていたガルニエ司祭とともに働いた。風土・習慣になじめず、言葉のハンデもあって宣教が難しかったが、決してあきらめず、生涯をヒューロン人のために尽くそうと決心した。このころから、イロクワ人による迫害が激しくなり、ガルニエ司祭をはじめ、仲間の宣教師たちが次々に虐殺された。ノエルは森に避難したが、キリスト教に反感をいだいてたヒューロン人から殺されて殉教した。彼は、失敗をした人の保護者といわれる。



25日 聖セルジオ(ラドネーシュ)

1314年-1392年

 セルジオは、ロシアのロストーフの裕福な家に生まれ、名前はバルトロメオといった。15歳のとき、ロシア内戦によって一家は全財産を失い、ラドネーシュに移り住んだ。

 両親が亡くなった後、兄のステファンと、近くの森で修道生活をすることを決め、聖三位一体にささげられた木造の小さな聖堂と丸太小屋を建てた。兄は途中で断念したが、バルトロメオはひとりで修行を続け、その地方の修道院長のもとで誓願を立て、セルジオという名をもらった。

 その後も、森に住み続け、彼の徳の高さと謙虚な人柄は人びとに知られるところとなり、従う者があとをたたなかった。彼と弟子が創設した修道院の数は約40にものぼった。また彼は、トルコ軍の侵入によって消滅していたロシアの修道院制を復興させた。セルジオは、ロシア諸侯の内紛を調停したり、大公ドミトリ・ドンスコイのトルコ軍との戦いを精神的に支え、勝利に導いたりした。
 1378年、モスクワの総大司教に推されたが辞退し、生涯を貧しさに甘んじて過ごした。

 彼は、ロシア最大の聖人といわれている。



26日 聖コスマと聖ダミアノ殉教者

4世紀

 コスマとダミアノは、アラビアのキリスト信者の家庭に、双子として生まれた。2人は若いころシリアで医学を学び、キリキアのエゲアで開業した。自分たちがキリスト者としてできる奉仕は、無償で人びとの治療をすることだとして、決して報酬は取らなかった。そのため「銀貨を取らない者たち」と呼ばれた。

 キリスト教徒の迫害が始まると、2人は捕まって、信仰を守りとおし処刑された。2人の遺体はシチリアに送られ、シールスに埋葬された。後に皇帝ユスチニアヌスは、コンスタンチノープルに、2人にささげた教会を建てた。フラ・アンジェリコによる2人の生涯の絵は有名である。

 彼らは、医師、薬剤師および医学の保護の聖人として知られている。



27日 聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭

1581年-1660年

聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭

 ビンセンチオは、フランス南西部の村プーイの農家に生まれた。牧童をしていたが、才能を見いだされて、トゥールーズで神学を学び、1600年に司祭となった。

 旅行の途中に、乗っていた船が海賊に襲われ、ビンセンチオは北アフリカのチュニスに奴隷として売られ、2年間の苦しい生活を強いられた。フランスに戻ることができたビンセンチオは、そこで大きな内的回心をし、生涯を貧しい人たちの救いのために尽くすことを決心した。

 1625年に「ラザリスト会(ビンセンチオ司祭会)」を創立し、祈りと黙想に励みながら貧しい人や囚人たちを助け、司祭を養成した。1633年にはルイーズ・ド・マリアックの協力で「愛徳姉妹会」を創立し、慈善事業をさらに発展させた。隣人愛に生きたビンセンチオは、慈善事業団体の保護者といわれている。



28日 聖トマス西と15聖殉教者

 秀吉時代から徳川家光の時代までの、宣教師として最後の殉教者で、日本26聖人殉教者(2.5記念日)に入らなかった女性と日本人司祭が含まれている。

 日本人の司祭であるトマス西、サンタマリアのヤコブ朝長、十字架のビンセンチオ塩塚の3人と、長崎のマグダナレナ、大村のマリナとして知られている女性がいた。またフィリピンの最初の聖人であるロレンソ・ルイズなど、日本から追放されたが死を覚悟して再び来日した外国人司祭もいた。

 聖トマス西と15殉教者
  ・聖トマス西(ドミニコ会 司祭)
  ・聖ヤコボ朝長(ドミニコ会 司祭)
  ・聖ビセンテ塩塚(ドミニコ会 司祭)
  ・聖マテオ小兵衛(ドミニコ会 修道士)
  ・聖フランシスコ正右衛門(ドミニコ会 修道士)
  ・聖長崎のマグダレナ(ドミニコ会第三会 修道女)
  ・聖大村のマリナ(ドミニコ会第三会 修道女)
  ・聖ミゲル九郎兵衛(信徒)
  ・聖京都のラザロ(信徒)
  ・聖ロレンソ・ルイス(フィリピン人 信徒)
  ・聖ドミンゴ・エルキシア(ドミニコ会・スペイン 司祭)
  ・聖ルカ・スピリト・サント(ドミニコ会・スペイン 司祭)
  ・聖アントニオ・ゴンザレス(ドミニコ会・スペイン 司祭)
  ・聖ミゲル・アオザラザ(ドミニコ会・スペイン 司祭)
  ・聖ヨルダノ・アンサロネ(ドミニコ会・イタリア 司祭)
  ・聖ギョーム・クルテ(ドミニコ会・フランス 司祭)

 彼らは、日本で列聖された最初の日本人司祭と女性である。



29日 聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使

聖ミカエル大天使

 ミカエルは、「神と似た者」という意味で、ダニエル書(10.13)に、イスラエルを助ける天使として描かれ、ヨハネ黙示録(12.7)でも悪魔に対して戦ったと記されている。聖フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられたのは1549年であるが、キリスト教宣教の許可が出たのは同年の9月29日であったことから、ザビエルは聖ミカエルを日本の守護者と定めた。

 ガブリエルは、「神の力」という意味で、ダニエル書では神のメッセージを預言者に伝えている。新約聖書の中では特別な役割をもち、ザカリアに洗者ヨハネの誕生を、聖母マリアに救い主イエスの誕生を伝えている。通信・報道の保護者といわれる。

 ラファエルは、「神はいやされた」という意味で、神のみ前にいる7位の天使の1位である。トビト書では、人びとの祈りを聞き入れて神にとりなし、エノク書では、堕落した天使たちに汚された地を清らかにする天使として描かれている。旅人、薬関係の仕事に携わる人、パイロットの保護者といわれている。



30日 聖ヒエロニモ司祭教会博士

347年-420年

 古代教会の重要なラテン教父であるヒエロニモは、ダルマチア(現オーストリア)の裕福なキリスト信者の家に生まれた。恵まれた環境と豊かな才能によって、短期間でギリシャ語とラテン語を習得し、ローマに留学して8年間修辞学を勉強した。そのころ、修道生活に入ることを望み、アクィレアで隠修士の仲間に入り、その後東シリアの荒野に行き、聖書を研究しヘブライ語を学んだ。そしてアンチオキアに戻ってから司祭に叙階され、380年ころ司教とともにコンスタンチノープルに行って、ニッサのグレゴリオなどと親交をもった。382年から385年まで教皇ダマソ1世に仕え、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したブルガタ聖書を完成し、聖書の注釈書も著わした。教皇の死後、ヒエロニモの反対者によってローマを追われ、仲間とともにベトレヘムに行き、男子と女子の修道院を創立し、また聖地巡礼者のための宿泊所も建てた。晩年は、民族大移動時代と重なり、多くの困難に見舞われたが、修道院を守り抜き、著作活動に励んだ。

 現在もカトリック教会で使われているラテン語訳聖書は、彼によるものである。ヒエロニモは、大学、神学科の守護の聖人とされている。



 

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