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第3回  神を知るための道


今回は、「神を知るための道」について、ご一緒に読んでまいりましょう。

私たち人間は、神を求めながら、なんとかして神を知りたいと望み、その「道」、方法を見つけてきました。これを難しい言葉でいうと、「神の存在の証明」です。昔から、多くの人々が神を発見してきましたが、その道として、主に以下の2つの道を挙げることができるのではないでしょうか。それは、

   1.世界
   2.人間
です。


1.世界から、神を知る

この世界の中にあるいろいろなものを見てみましょう。永遠に続くものがあるでしょうか? どれも、刻々と変化していきます。たとえば、食卓の上に果物があるとします。1日ではそれほど見た目にはわかりませんが、2日目になると、皮の色が変わり、しなびてきます。そのまま放っておくと腐ってしまうでしょう。人間である自分たちのことを考えてもそうですね。生まれたての赤ん坊から、幼児になり、児童と呼ばれるようになり、少年少女と呼ばれるようになり、青年に成長し、今日に至っています。そして、最後には死んでいく存在です。

このように、この世にあるものは、すべて変化していくものであり、すべて有限なものです。このことから考えてみると、この世のものが根源的なものではないことがわかります。ですから、この世のものが、すべて他に依存しているのではないか、と考えることができるのです。変化しない存在があるということがわかります。

さらに、自然界のものを見渡して見ると、すばらしい秩序が見られます。宇宙のことを考えてもそうですし、草花、鳥、四季を考えても不思議な秩序で動いていることを感じます。この自然界にある自然法則、秩序はどうしてあるんだろうと思いませんか? 不思議ですね。すべてのものに秩序があって、自然界はこの秩序どおりに動いています。

SF小説などでよくテーマにされているのは、この自然界のある部分が異常に発達するというようなことです。それによって引き起こされる恐怖などを描いているものが多いですね。つまり、この秩序が崩れた時は、人間にとって非常に恐ろしいことが起こると想像されるのです。こういうことからも、この秩序を創った方、そしてこの秩序を保っていてくださる方が存在しているということがわかるのです。

また、自然の美しさから、神を感じ取る人もいます。日本は四季に恵まれ、世界の中でもその自然の美しさには定評がありますね。草花の美しさ、特に、日本人は桜の美しさに感じる心があるようです。それだけではなく、雪を頂いた山々の美しさ、大きな1本の木の美しさ、穏やかな、あるいは荒れた海の雄大さなど……数え挙げればきりがありません。これらの美しさを見ていると、その美しさは刻々と変わっていくのがわかります。そのどれもが美しいのですが、その美しさの根源である方が存在していることがわかります。


2.人間から、神を知る

すべての人に良心があります大人だけでなく小さな子どもも、何かしたとき、これはいけないことをしたということがわかっていて、本能的に隠そうとしますね。先日、新幹線に、1歳と2歳くらいに見える2人の子どもが乗ってきました。おじいさんと一緒でした。車内販売のカートが来たとき、おじいさんは2人の孫に、新幹線のおもちゃを買ってあげました。「どれがいい?」ときいて、一人一人の希望のものを買っていました。しばらくして、おじいさんがウトウトし始めると、弟が、すぐにお兄ちゃんの持っているおもちゃのほうがいいと、ぐずり始めました。弟が兄のおもちゃを引っ張り、2人で取り合いになりました。そのとき、おじいさんが目をさまし、「どうしたのかい?」と言ったとたん、2人の兄弟はいとも無邪気な笑顔をして「ううん、何にも」と言ったのです。

子ども心に、けんかをしたらいけないと思って、それを隠そうとしたのか、おもちゃを買ってくれたおじいさんに悪いと思ったのかわかりませんが、それはそれは見事な豹変ぶりで、子どもの心に働く良心を見た思いがしました。

このような無邪気な例だけでなく、自分の心を調べてみれば、何かをしようとするとき、「これはいけない」「これはいいことだ」という心の声が聞こえてきます。そして、「これはいいことだ」ということをしたときは、心は平安ですが、「これはいけない」と感じていることをしたときには、心の穏やかさを失ってしまうという経験をなさったことがありませんでしたか。すべての人に、この良心があるということを、誰も無視することはできないのではないでしょうか。この事実は、人間が人間以上の法に服していることを示しています。つまり、人間以上の法の制定者が存在していることがわかります。

すべての人の心に永遠へのあこがれがあります。人間の心は、永遠に滅びないものへのあこがれがあります。子どもたちは、よく自分だけの宝物を持っています。大人の目から見れば、ガラクタに近いのですが、子どもにとって、それは大切な宝物なのです。ティヤル・ド・シャルダンの子ども時代の話を聞いたことがあります。彼は子ども心に、鉄は固くて丈夫そうなので、そのままの形で永遠に存在するものだと思って、とても大切にしていました。ある時、こっそり隠して置いた庭の隅から、その鉄の棒を出してみると、何と腐食してボロボロと表面がはがれていきました。彼は、その時この世のものに永遠はないということを光のように、わかったといいます。そして、永遠の存在である神に強くひかれたそうです。

テレビドラマでも、愛し合う2人の男女が永遠の愛を誓い、困難にもめげず、愛を貫きとおすというストーリーが、手を変え品を変え毎回のように画面に登場し、高視聴率を獲得するというのも、愛が永遠であってほしいという人間の心の表れでしょう。

このようなことから、人間も、世界も、究極目的ではない、第1原理でもない、ということがわかります。こうして、人間は理性的に考えて、人間を超えるお方が存在するのだということを発見してきたのです。そしてこの存在を「神」と呼んでいるのです。

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