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第30回 イエス・キリストは「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
                      十字架につけられて死に、葬られた」


私たちカトリック教会の述べ伝える福音の中心は、キリストの過越の神秘ですイエス・キリストは、ご自分で、過越の神秘(つまり、ご自分が苦しみを受けて葬られ、復活すること)を弟子たちに伝えておられました。


第4項 イエス・キリストは「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
                         十字架につけられて死に、葬られた」


私たちは、福音書が伝えているイエス・キリストの受難・ご死去ということを、歴史的資料からもわかる事実を、信仰の眼を通して見ることにより、救いの意味を知ることができるのです。


第1節 イエスとイスラエルの民


イスラエルの民は、神と交わした契約を、律法を守ることによって忠実に生きようと努力していました。しかし、イエスが活躍された当時の社会は、神が人間を救うために結ばれた契約の精神から遠く離れ、細かい律法を守る事によって義人とされ、律法を守る事のできない人々は、律法学者や自分を義人と見なしている人々から軽蔑されていました。

イエスは安息日に長年病気に苦しむ人を癒されましたが、律法学者の教えによれば、この行為は安息日にしてはならないことでした。また、中風の人を癒すために「あなたの罪はゆるされた」と言われました。これもまた、罪をゆるす権威を持つ方は神だけと信じ、イエスを信じられないファリサイ派の人々や律法学者から、神を冒涜する者だと思われました。このように、イエスは、公生活の初めから、その行いとことばによって、これらの自分を正しい人だと自認している人々から、激しい憎しみを買いました。特に、ファリサイ派の人々とヘロデ党の人々は、祭司長や律法学者と手を結び、イエスを殺すことで、意見が一致したのです。

多くのイスラエルの人々にとって、イエスはどのように写っていたのでしょうか。自分たちは神から選ばれた聖なる国民だと自負していた人々には、イエスは次のような点で重要な違反を犯していると思われたのです。
   1.律法との関係で。
   2.エルサレムの神殿との関係で
   3.神への信仰の関係で
この点について見ていきましょう。


1 イエスと律法

律法学者たちや祭司たちは、どんなささいな律法さえも守ろうと細心の注意をはらっていましたが、それでも、守ることはできませんでした。ですから、毎年行われる贖罪の日には、自分たちの犯した律法違反を、神にゆるしていただこうとしました。しかし、律法を完全に守ることがおできになるのは、神であるイエスにほかなりません。

マタイ福音書の初めのほうに、山上の説教としてよく知られているイエスの説教が書かれています。その中でイエスは、「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するために来た」とおっしゃっています。イエスが律法を完全に成就するということは、イエスが律法のもとに生まれた神の子であり、同時に立法者である神だからおできになるのです。

モーセの律法は、石の板に書かれていましたが、イエスの心の中に律法の完成である愛が記されています。このイエスがすべての人の罪のあがないとして、すべての人が犯した罪をご自分の身に帯び、死んでくださったのです。


2 イエスと神殿

イエスは御父の住まいとしての神殿、祈りの家としての神殿に深い敬意をもっていらっしゃいました。イエスのご生涯を見ても、そのことがよくわかります。 生後40日目に神殿に奉献されたこと、12歳の時には神殿に留まり、御父に仕える義務があることを示されました。公生活においても、イエスは定期的に神殿に巡礼なさいました。しかし、受難を前にしたイエスは、神殿を見て涙を流されました。それは、見事な神殿の建物が崩壊することをご存じだったからでした。これは、イエスの過越によって開かれる、終わりの時のしるしでした。

イエスは、ご自分を神殿と同一視され、ご自分が神の決定的な住まいであることを、人々の間で示されました。したがって、イエスを殺すことは、救いの歴史が新しい時代に入ることを示す神殿の崩壊を予告するものだったのです。


3 イエスと、唯一の神ならびに救い主へのイスラエルの信仰

以上の2つに関するイエスの教えは、イスラエルの宗教指導者にとって、対立せざるをえない原因となったのでした。さらに、イエスの罪のあがないのわざは、彼らにとって「つまずきの石」となりました。ファリサイ派の人々から「罪びと」と見なされていた徴税人たちと食事をするイエスの姿は、彼らにとってつまずきとなりました。

イエスは特に、弱い人、罪びとに対して、慈しみ深い態度をとられましたが、それは、神のおとりになる姿勢だということを示されました。このことは、多くの人をつまずかせることとなりました。神とご自分を同一視しているということで、つまずいたのです。特に、神のほか誰も罪をゆるす権威はない、と主張しているファリサイ派の人々にとって、罪をゆるすイエスを見て、イエスが神を冒涜しているのか、またはイエスに神の御名が現れているのか、の判断を迫られたのです。

イエスは、宗教指導者に、ご自分の行っていることは御父のわざであるから信じるようにと促されました。しかしこれは、イスラエルの宗教指導者に回心を求めたことになり、彼らは激怒しました。こうして、イエスはとく聖の罪を犯した罪人として、死に値すると判断されたのです。

 

※とく聖:神聖な存在とされているものに対して、所定の手続きをふまずに、みだりにこれに接触したり、故意に冒とくしたりすること。(『広辞苑』第4版)

 

ここにも、短い要約が付けられています。要約に目を通してから、本文を読むのも、理解を助けるひとつの方法でしょう。

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