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第33回 イエス・キリストは葬られた


第3節 イエス・キリストは葬られた


救いのご計画の中で、大切なことの一つは、もちろん、「私たちの罪のために」そして、「私たちの罪を償うために、神のひとり子・イエス・キリストが亡くなられた」ということです。しかし、もう一つの大切なことは、「神のひとり子・イエス・キリストが、死を味わわれた」ということです。亡くなられたのですから、死という状態を体験されたということは当たり前のことですが、私たちは何となく、この事実を忘れてしまいがちです。私たちは、「死」を「霊魂が肉体を離れる」という状態として頭ではわかっています。しかし、それは私たちの場合です。イエスの死は違います。

これは、私たちが毎年、聖土曜日を記念するときに感じている深い神の神秘ですね。それは、イエス・キリストが十字架上で亡くなられた瞬間から、復活なさったその瞬間まで、死を体験なさったという神秘です。さらに、墓に納められたキリストが、人類に救いをもたらし、神の大安息に入られたという神秘でもあるのです。


埋葬されたからだとともにおられるキリスト
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イエス・キリストが墓に葬られ、そこにとどまられたということは、何を表しているのでしょうか。それは、苦しむことのできる生前のキリストの状態と、復活したキリストの栄光の状態とが、現実に結びついているということを表しているのです。ですから、救い主・イエス・キリストは、使徒ヨハネが黙示録に書いているように、「死んだものとなったが、今は永遠に生きている」と言うことができる方なのです。神のひとり子・イエス・キリストは、死によって分離された霊魂と肉体を、担い続けられたのは、考えてみると当然のことと言えるでしょう。


「あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」
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イエス・キリストは完全な人間でしたから、その十字架の死によって、人間としての生を終わられました。ですから、本当に死なれたのです。しかし、同時にキリストの肉体は、神のひとり子としてのペルソナに結ばれているので、私たちのような人間が死んだ亡骸(なきがら)にはなられません。


神の力がキリストの体を肉の腐敗から守られたのです。

聖霊降臨の日に、霊に満たされたペトロが、エルサレムに集まっている人々に、旧約時代の偉大な王ダビドの言葉を引用し、次のように説教しています。わたしのからだは希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(使徒言行録2.26~27)と。ペトロは、イエス・キリストの死と復活の事実を、この預言の成就だと見ているのです。


「キリストとともに葬られる」
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皆さんの中には、洗礼を受けていらっしゃる方もいらっしゃることと思います。その方々は、ご自分が洗礼を受けられたときのことを思い出してみてください。私たちは、洗礼を受けるとき、「キリストの新しいいのちに生きるために、死ぬ」のだ、ということを教えられました。実際、洗礼を受ける儀式は、そのことを形としてもシンボリックによく表していると思います。

私たちは洗礼によって、キリストとともに葬られ、キリストの死にあずかるのは、私たちもキリストの新しいいのちに生きるためなのです。キリストが栄光のうちに墓から復活され、いのちを輝かしておられるように、私たちもキリストのいのちを輝かせるためなのです。

短い要約にも心をとめ、読んでみましょう。

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