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第38回 約束の時代の神の霊と神のことば


3 約束の時代の神の霊と神のことば

カトリック教会は、旧約時代にははっきりご自分を現していない神の霊と神のことばを、旧約聖書の中に探し求めてきました。以下、どのように神の霊と神のことばが現されているかについて見てみましょう。


創造において

神がすべてのものをお造りになったということは、創世記の初めに書いてある天地創造の記事の中に現れている、ということは前にお話いたしましたね。「光あれ」と神が言われると光があった。と聖書には書かれています。「光あれ」というのは神のことばです。すべての創造において、神のことばによらずに造られなかったものは、何一つないのです。創造主である御父と神のことばである御子のおられるところには、聖霊もともにおられます。聖霊は「生命の与え主」「あらゆるよきものの源」なのです。創造は三位一体の共同のみわざなのです。


約束の霊

人間は原罪と呼ばれる罪を犯すことによって、神に似た存在である人間、神の栄光を受けられる人間ではなくなりました。しかし、私たち人間が「神にかたどられて造られたもの」であることには変わりがありません。

神は忠実な方です。人間を救おうとする計画を変えることはありませんでした。神はまず、アブラハムに子孫を約束なさいました。人間的には望みえない状況において、神は彼に子供を授けられ、その子孫において、地上のすべての人々が神の祝福に入ると約束されたのです。

その子孫・キリストによって、私たち人類に聖霊が注がれ、すべての人は神の子としてひとつに集められるのです。


神の顕現と律法とに導かれて

アブラハム、イサク、ヤコブという族長時代を経て、イスラエルの民をエジプトから脱出させたモーセ、その後に続くヨシュア、預言者たちの時代と続いていきましたが、その間、イスラエルの民を導くために、神はご自身を現すことによって、彼らが使命を果たすように導かれました。

キリスト教の伝承では次のように言っています。「この時代、神の顕現は、聖霊の雲の中に神のことばである御子は、覆われたかたちで啓示されていた」と。神の導きは、特に律法をモーセを通して与え、それによって導くという方法がとられていました。律法は神と民との契約という形で与えられました。


王国時代とバビロン捕囚期において

神との契約を守るはずの民は、しばしば誘惑に負け、神に背いてしまいました。イスラエルの民は、周囲の国々のように王制をとるようになり、サウル、ダビデ、ソロモンと王が続きました。しかし、この王たちも常に、神に忠実というわけではありませんでした。その中で、ダビデは神のみ心に従うように努めた王でした。このダビデに神は、王国を約束なさいました。

ソロモン王の死後、王国は南北に分裂し、神との契約に不忠実な王と民によって、イスラエルの民はバビロンに流されました。これをバビロン捕囚と言っていますが、この苦しい体験によって民は浄化され、その捕囚は約束された霊による再興の初めとなったのです。

神の計画においてバビロン捕囚は、十字架の影で覆われ、捕囚から国へ帰る貧しい残りの者の姿は、教会の姿を示す予表となっています。


メシアとその霊への待望

神の民は、神との契約の思想を深めていくに従い、次第に救い主メシアを待ち望む心が培われ、新しい霊が与えられるという考えに発展していきました。救い主メシアの姿の特徴は、イザヤ書の11章から現れはじめます。このみことばは、特に待降節に読まれる箇所で、皆さんの耳にも親しいのではないかと思います。もう一度、イザヤ11.1~2を読んでみてください。

さらに、「主のしもべの歌」と呼ばれるイザヤ42.1~9は、メシアの特徴を示しており、イエスの受難の意味を告げ、イエスがどのように多くの人を生かすために聖霊を注いでくださるかを表しています。

イエスはナザレの会堂でイザヤ61.1~2の箇所を、ご自分に当てはめながら福音を告げ知らせはじめました。神が聖霊を遣わしてくださるという約束は、使徒言行録にあるように、聖霊降臨のときに成就したことをペトロは宣言しました。(使徒言行録2.1~36をじっくり読んでください)。

「貧しい人々」---神のご計画に完全に身をゆだねた謙虚で柔和な人々、メシアを待ち望む人々が存在し続けることができたのは、キリストの到来に備えるためになされた聖霊の隠れた偉大な働きだったのです。

今回は、聖書の箇所が何度か出てきました。この機会をとおして、旧約聖書と新約聖書に徐々に親しんでいくと、聖書朗読が楽しくなりますよ。

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