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第45回 教会は聖である


カトリック教会の特徴である「一、聖、公、使徒伝承」ということについて、ご一緒に考えていますが、今回は、「聖なる教会」「普遍である教会」について見てみることにいたしましょう。


2 教会は聖である

神の子イエス・キリストは、聖なる方です。教会は、このキリストに結ばれることによって、キリストによって聖化され、「神の聖なる民」となることができます。私たち人間は、キリストによって、キリストにおいて聖となることができるのです。どんな人でも、どんな生活環境の中にあっても、その人の歩む道において、聖となるように召されています。

この聖性の魂とも言うべきものは、「愛」です。第2バチカン公会議の教会憲章は、愛は「成聖のすべての手段を支配し、生かし、目的に導きます」と言っています。しかし、完全な聖性に到達するのは、まだまだ先のことです。教会のメンバーは一人残らず、自分が罪びとであることを知っており、認めています。ですから、教会は「聖」であると同時に、清められるべき存在であり、聖化の途上にあるのです。

みなさまの中には、列聖式に参列なさった方もいらっしゃると思います。この列聖ということは、その列聖された人が、どんな状況にあっても神から離れず、神の恵みに忠実に緒徳の実践に励み、聖性に達したということを、教会が荘厳に宣言することです。列聖ということを通じて、私たちが聖性の恵みを再認識し、聖人の模範に倣い、その取り次ぎを求めて生きるように励ますためです。


3 教会は普遍(カトリック)である

「普遍」の意味

私たちは、「カトリック教会」といつも使っていますが、実は、この「カトリック」という言葉が「普遍」という意味の言葉なのです。教会は2つの意味で「普遍」と言えます。

  1. 教会のうちにイエス・キリストが現存しておられるので普遍です。
    教会はキリストの体ですが、その頭はキリストです。このキリストに結ばれ、教会は
    キリストから救いの手段のすべてを受けているからです。
    2. 教会がキリストによって、全人類に派遣されているから普遍です。


各部分教会は「普遍」である

「部分教会」とは、各教区のことです。ですから、各教区の司教と結ばれて、信仰と秘跡に生きるキリスト者の共同体のことを意味しています。各「部分教会」、つまり教区は、ローマの教会との一致のうちに、完全な普遍性をもつ普遍教会です。


カトリック教会に属する者はだれか

すべての人は、神の民の普遍的な一致に招かれています。 カトリック信者も、カトリック教会ではない他のキリスト教会に属している人も、種々のしかたで、この一致に秩序づけられています。ですから、カトリックの洗礼を受け、教会の見える組織の中に結ばれている人々は、完全にカトリック教会に属している人々と言えます。しかし、キリストを信じ、洗礼を受けた人々は、完全にではなくとも、カトリック教会との交わりの中にいる人々です。その中でも、東方諸教会との交わりは、特に深いものです。


教会と非キリスト者

神の子、イエス・キリストの福音をまだ受け入れていない人々も、神の民へ秩序づけられています。


教会のユダヤ人との関係

教会は、新しい契約による神の民ですが、ユダヤ人の信仰は、古い契約における神の啓示に応えるものです。新しい神の民である教会は、イエス・キリストを神の子・メシアと認めていますが、ユダヤ人はメシアの姿がはっきりせず、キリスト・イエスを知らないか、あるいは認めないという状態の人々です。


教会のイスラム教徒との関係

神の救いのご計画は、創造主を認める人々をも含むものです。ですから、アブラハムの信仰を保っていると主張するイスラム教徒も含まれています。


教会とキリスト教以外の諸宗教との結びつき

神はすべての人にいのちとその他の恵みをお与えになり、すべての人が救われるのを望んでおられます。教会は、諸宗教の中に見いだされるよいもの、真なるものは、すべて福音を準備するものであって、神がお与えになったものです。


「教会の外に救いはない」

教父たちは、「教会の外に救いはない」と言っていますが、これはどういう意味でしょうか。これは、救いは、頭であるキリストに結ばれた体である教会から来るということですが、同時に、自分の過ちによらず、キリストやキリストの教会を知らない人々には当てはまらないものです。ですから、キリストや福音を知らずにいても、神を探し求め、良心に従って努めている人々に、神は救いをお与えになることでしょう。

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