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第87回 キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念

エウカリスチアについて理解する必要のある3つの点の第1は、エウカリスチアが御父への感謝と賛美ということでした。今回は、その第2の点について触れてみたいと思います。

キリストとそのからだである教会の、いけにえによる記念

エウカリスチア(感謝の祭儀・ミサ)は、キリストの体である教会の典礼の中で、キリストが果たされた唯一のいけにえの再現であり、秘跡的な奉献です。ですから、ミサの奉献文には、聖体の制定のことばのあとに、アナムネシス(記念)と呼ばれている祈りがあります。

カトリック教会の中で、また、聖書的に用いられる「記念」という言葉は、単に過去に行われた出来事を想起することではありません。「記念」とは、神が人間のために行われた偉大なわざを宣言することです。

典礼祭儀の中でこれらの出来事を祝うとき、その出来事は現存し、現在化されます。

「記念」という言葉は、さらに新約聖書では、新しい意味づけがなされます。それは、教会がエウカリスチアを執り行うとき、キリストの過越を記念し、つまり、キリストの行われた十字架の犠牲が祭壇で祭儀執行されるとき、これが現存するものとなるということです。

エウカリスチアは、キリストの過越の記念ですから、いけにえでもあるのです。キリストは、十字架上ですべての人のために、その罪がゆるされるようにご自分のからだと血をささげ、私たちにそのからだと血を与えてくださるのです。ですから、エウカリスチアは、十字架上のいけにえを現在化し、記念し、その実りを分け与えるので、いけにえなのです。

ここからもおわかりになるように、キリストのいけにえと、エウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです。ただ、十字架上では実際、血を流してご自身をささげられましたが、その同じキリストが祭壇上では、血を流さずにささげられるという、ささげ方が異なっているだけなのです。さらに、エウカリスチアは、教会のいけにえでもあります。キリストのからだである教会は、頭であるキリストとともに、ささげられ、御父のもとでなされるキリストの執り成しにあずかるのです。

ミサに参加する信者一人ひとりの生活、賛美、苦しみ、祈り、働きなどのすべては、キリストの奉献に合わせられ、新たな価値を得ます。こうして、教会全体が、キリストの奉献と執り成しに結ばれます。教皇は、普遍教会の一致のしるし、奉仕者として、すべてのエウカリスチアの祭儀において、その名が唱えられます。エウカリスチアでその地域の司教の名が唱えられるのは、司祭が司式するときでも、司祭団に囲まれ、助祭の補佐を受けていても、つねにエウカリスチアの責任者であり、部分教会の頭であることを表しているからです。

キリストの奉献には、今、この世に生きている人々だけではなく、すでに天の栄光に入った人々も参加しています。ですから、エウカリスチアに実際参加している人は、目に見えている人々だけではなく、聖母マリアをはじめ、すべての天使、聖人とともに、感謝の祭儀を祝っているのです。さらに、エウカリスチアのいけにえは、亡くなった信者が、キリストの光と平安のうちに憩うことができるようにも願ってささげられます。

このように、私たちのエウカリスチアは、この地上と天上と亡くなった人々という全教会が一致してささげるキリスト者の奉献なのです。

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