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第92回 受洗者の回心

 
2 洗礼の後になぜ和解の秘跡があるのか

復活徹夜祭に洗礼を受け、まだ感激さめやらぬ方々がいらっしゃると思います。洗礼によって、原罪がすべてゆるされ、「白い衣を身につけなさい」と言われたばかりで、そのように生きているのに、なぜ、「ゆるしの秘跡」を受けなければならないのでしょうか。

使徒ヨハネは、私たちのこのような疑問に、次のように答えています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちのうちにはありません」(ヨハネ1 1.8)。聖の聖である方・神のみ前に立つとき、私たちは自分の汚れを感じるはずです。ですから、私たちは「主の祈り」を祈るたびに、「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」と唱えているのです。

私たちは、洗礼によって、キリストへと回心をしました。私たちは、キリストの新しいいのちを生きていますが、人間本性のもろさと弱さ、罪への傾きを感じることがなくなるわけではありません。この「罪への傾き」を、教会用語では、「欲情」と呼んでいます。私たちは、この自分の持っている罪への傾きと、たえず戦わなければなりません。これが、聖性と永遠のいのちを目ざす回心の戦いなのです。

 
3 受洗者の回心

イエスは公生活の最初に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1.15)、と回心を呼びかけられました。このイエスの招きは、神の国の告知の本質に属するものです。イエスのわざを継続する使命を生きている教会は、キリストをまだ知らない人々に、このイエスの招きを呼び続けています。

洗礼は、最初の基本的な回心です。この回心とともに、第二の回心と呼ばれているものがあります。

最初の回心の行為である洗礼を受けたキリスト者である私たちに、キリストはいつも、回心に招き続けておられます。キリストが教会をとおして回心を呼びかけられ、私たちはそれに応えて悔い改めと刷新の努力を絶えず続けるのです。この回心への努力は、私たち人間の力だけではなく、神の恵みによってできることなのです。

第二の回心をよくわからせてくれる聖書の箇所は、「ペトロの否み」と自分を否認するペトロをゆるし、じっと慈愛の眼差しでご覧になるイエスの姿を伝えるルカ福音書22.54~62です。このペトロは、イエスの復活の後、ガリラヤ湖畔で、イエスの問いに応え、3度イエスへの愛を表明しています。

第二の回心は、個人的な回心ですが、共同体的な意味合いも込められているものです。洗礼によって教会共同体の一員となった私たちが、「悔い改めなさい」というイエスの招きに応えて回心するとき、より完全な教会共同体の一員「しみもしわもない」完全な教会となっていくからです。

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