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第101回 病者の塗油の秘跡 ?(1)

 

第5項 病者の塗油の秘跡

 
1 救いの営みにおけるこの秘跡の根拠
 

人生における病気---

私たちの周りには、病気で苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。私たち自身も病気になり、自分の限界、無力さなどを体験したことがあると思います。重い病気であればあるほど、人生の終わりである「死」をかいま見たり、考えさせるものです。

そうだからこそ、病気にかかった人は、不安や自暴自棄に陥ったり、あるいは、その逆に、病人が精神的に成熟するのを助けたり、物事の本質に目を向けさせたりもします。さらに、病人が、神を探し求めたり、神と出会ったり、神に立ち返ることもしばしばあります。

 

神の前に生きる病者---

旧約時代、人々は、病気を神とのかかわりの中で受け止めていました。ですから、旧約聖書には、神に背いたから病気になったのだと考えている表現がしばしば出てきます。ですから、病気のことで、神に嘆き訴え、祈りをささげていました。そして、神に忠実に生活すれば、健康を取り戻すという体験もしています。

 

医者であるキリスト---

では、新約時代はどうでしょうか。キリストは、病気になって苦しむ人々の友となってくださいました。病人をいやされることによって、キリストは神が私たち人間を訪れてくださり、神の国が近づいたことをはっきり示してくださいました。

イエスは、肉体の病気をいやされるだけではなく、罪をゆるす権威をも持つ、真の意味での「医者」でした。実際、キリストは、「医者を必要としているのは、病人である」とおっしゃっています(マタイ9.12)。

イエスがなさった最後の審判についてのたとえ話が、マタイ福音書の25章に書かれています。その中で病人を見舞った人に対して、「私が病気のときに見舞ってくれた」と、病人とご自分をまったく同一視なさっています。

また、イエスはいやしを求める病人に、信じることを求められます。イエスはいやしのために、しばしば、按手や沐浴、泥やつばなどのしるしを用いられました。病人もイエスに触れようとしました。今もキリストは、同じように、秘跡を通して私たちに触れ、私たちをいやしてくださっています。

イエスは、人々の苦しみを見、決定的ないやし・治癒を、ご自分が十字架上でいのちをささげることによって実現なさいました。それは、キリストの死と復活による罪と死からの勝利です。この十字架での受難と死を通して、キリストは、苦しみに新たな意味を与えられたのです。それは、苦しみは私たちをキリストに似たものとし、キリストのあがないの苦しみに、私たちが一致できるようになったということなのです。

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