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第150回 補助性の原理 –(2)


前回に引き続いて、私たちの共同体について、教会がどのように語っているかを見ていきましょう。

人間は誰でも、必ず、共同体に属しています。私たちも自分がどんな共同体に属しているかちょっと考えてみてください。私たちが属している家庭も共同体です。学校も、会社も、教会も共同体です。

これらの共同体は、一つひとつ、ずいぶん違っています。それは、それぞれの共同体は、目的を持っており、その目的によって性格づけられ、その目的遂行のための規則を持っているので、それぞれが特色を持っているのです。

このような共同体が持っている規則、別の言葉で表現すれば、社会制度とも言えるものに発展していくのですが、この社会制度の起源、主体、目的は人間であり、人間になければよい社会制度とは言えません。

家族や国家のような共同体は、直接、人間の本性に対応するものなので、人間にとって必要なものです。

社会生活にできるだけ多くの人々に参加してもらうためには、経済、文化、社会、スポーツ、レクリエーション、職業、政治などの目的を持った団体や組織が生まれてくることを奨励すべきです。こういう「社会化」された団体・組織は、その共同体が掲げている目標に到達するために、個人個人の持っている能力を超える目標であったとしても、そこに到達するために、自然に人々を結束させるという自然的性向を表すものでもあります。この「社会化」が、個人の資質、とくに主導性と責任感を培い、権利の保証を助けるものです。

社会化には、危険性も伴います。国家が干渉しすぎるとき、個人の自由と主導性を妨げてしまいがちです。

このような危険性を避けるための教えとして、教会が打ち出しているものは「補助性の原理」と呼ばれているものです。この原理に従うならば、共通善の観点から、共同体のメンバーを支え、お互いの活動を調整するように援助するのです。ですから、上から押さえつけたり、役割を奪ったりすることとは逆の働きをするのです。

この原理のモデルは神にあります。神はすべての権限をご自分に集めるのではなく、それぞれの人に、その人だけが神から与えられている能力に従い、行使できる役割をお与えになっておられます。社会生活において、私たちは、この神のなさる統治の様式を見ならう必要があるのです。

神がどのようにこの世界を統治なさっているかを見るならば、私たち人間に自由を与えてくださり、その自由を大いに尊重してくださっていることが分かります。これは、私たち人間が、共同体を統治する立場に置かれたとき、その統治者の英知の源となるはずです。この神の姿を見るならば、統治する人々は、神の摂理への奉仕者として行動すべきだということが分かります。

「補助性の原理」は、個人と社会の関係の調和をめざし、真の国際秩序を打ち建てることを意図しています。ですから、国家の干渉には限界を設け、どのような形で現れたとしても、集産主義に反対するのです。

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