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第193回 愛


前回は、「信仰」、「希望」と続いていました。今回は、「愛」についてです。

神への愛について考えるとき、まず、神がわたしたちを愛してくださっているということに気づきます。聖書のさまざまな箇所に、「神は、永遠の昔から、わたしたちを愛をもって造ってくださった」ということが書かれています。

先日、ある宣教師の方が、アフリカに宣教に行ったときの話をしてくださいました。そのとき、そのアフリカの種族の人々は、日本人と比べて、とても精神性が豊かだということを話されて、自分たちは神から愛されている、ということを信じて疑わない、それはすばらしいことだ、と話してくださいました。

神が与えてくださった第一のおきての中には、わたしたちは、すべてにまさり、神を愛し、すべての被造物を、神が私たち人間のために造ってくださったのだということを信じなければなりません。ですから、すべての被造物を神のために愛さなければなりません。それを、神はお望みなのです。

すべての被造物というと、犬や猫をすぐ思い浮かべるかもしれませんが、第一に考えなければならないのは、人間です。あなたは、まずだれを考えましたか? お父さん、お母さん、兄弟、姉妹、学校のお友達、ご近所のおばさん……いろいろの人のことを思ったことでしょう。

その人たちが好きですか? もし、嫌いな人がいたとしても、神が愛されている人を、自分が嫌い、ということは簡単には言えません。わたしたちは、神の愛に応えていかなければならない義務、務めがあるのですから。このような神への愛に反する罪は、さまざまな形で現れます。例えば、無関心、忘恩、不熱心、倦怠、神への憎しみなどです。

無関心について、マザーテレサは「愛に一番背くのは、無関心です」とおっしゃいましたが、本当にそうです。無関心とは、神の愛について考えたりすることを、軽視したり、拒否したりして、神がいつもわたしたちのことを心にかけ、配慮してくださっていることを認めず、その力も認めないことです。

忘恩とは、神がこんなにわたしを愛し、大切にしてくださり守ってくださっているのに、その神の愛を軽くみたり、たいしたことないと思ったり、考えたりして、その結果、神にそのご恩をお返しすることを拒否することです。

では、不熱心とは何でしょうか? 神の愛に応えたいという心があるときは、わき上がるのですが、残念ながら、すぐその心がさめてしまうことや、神に約束したのに、それを怠ったり、神の愛に応え、神に従っていこうという心をいやに思うことも含まれます。倦怠というより、霊的怠惰と言ったほうがピンとくるかもしれません。神からくる喜びを拒否したり、神の慈しみを嫌がるところまで行き着くものです。

神への憎しみとは、わたしたち人間の高慢に由来するものです。神の慈しみを信じることができず、その慈しみ、愛に対抗して、神は「罰を下す厳しい、冷たい神」ということで、神を呪うことです。

神への愛に反することは、人間の救いを望み、ひとり子イエスの命さえも惜しまれなかった神への愛、慈しみを拒否し、神を呪うまでになるのです。恐ろしいことです。

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