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第197回 宗教の社会的義務と自由の権利

◆ 宗教の社会的義務と自由の権利

すべての人は、真理を求め、神を探究し、ついに神を見つけ、神と出会い、その神と教会に関する事柄を受け入れ、それを守る義務を持っています。この義務は、人間の本性に由来するものです。ですから、キリスト者は、「すべての人を照らす真理のある光線を示す」他の諸宗教に対して、尊敬の念を払い、忍耐を持って応対するよう求められています。

わたしたちは、個人としても、社会人としても、私的にも公的にも、神に真の崇敬をささげる権利を持っており、義務を持っています。これは、「真の宗教とキリストの唯一の教会とに対する個人および団体の道徳的義務に関する伝統的なカトリックの教義」であると、第2バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』は宣言しています。

キリスト者は、神との交わり、教会のいろいろな秘跡の恵みや、信者同士の交わりのうちに、自分も人々も福音化しながら、その人の属している共同体、環境、などをキリストの愛で満たしていき、福音化していくのです。

キリスト者には、一人一人のうちにある真と善を愛する心を見守りながら、それを活気づける社会的義務があります。また、キリスト者には、自分たちの信じている神を礼拝するように、周囲の人に知らせるように求められています。わたしたちがこのように働くことによって、その人の周囲の人々や社会に対して、キリストの王権を示すことになるのです。

わたしたちはだれも、自分の良心に反して行動するように強制されることはなく、また、私的、公的にも、単独でも団体の1員としても、自分の良心に従って行動するのを妨げられることがあってはなりません。 これは、人間の本性に由来するものです。

信教の自由を誤解してはなりません。信教の自由は、誤謬を信じてよいということでも、誤謬を選ぶ権利でもありません。これは、国民的自由に関する人間の自然権です。ですから、宗教的なことに関して、政治権力などからの外的強制を受けることはないという特権です。この自然権が、公民権として認められなければならないのです。

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