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第199回 わたしのほかに神があってはならない –(2)


前回に引き続いて、「わたしのほかに神があってはならない」ということについて考えていきましょう。迷信に続いて、偶像崇拝についてお話いたします。

◆ 偶像崇拝

第一のおきては多神教を否定するものです。ですから、わたしたちに真の神以外の神々を信じないことが命じられていますし、唯一の神以外のものを神として拝まないことが要求されています。

旧約聖書の詩編の中には、偶像のことを「口があっても話せず、目があっても見えない」のだ、単に「金銀にすぎず、人の手で造ったもの」にすぎないのだ、と詠っています。「偶像を造り、偶像に寄り頼む人は、偶像と同じようになる」と詩編で言っています。

これと対照的に、真の神は「生ける神」であり、いのちを与えてくださる方、そして、歴史に介入される方なのです。

偶像崇拝というのは、異教の神々を拝むということだけではありません。わたしたちにとって、いろいろな機会に誘惑となり続けるものです。偶像崇拝は、神でないものを神として拝むことです。

イエスが「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃいましたが、わたしたち人間は弱いもので、「わたしは神様を信じますと、頭ではよくこのことをわきまえているつもりでも、心のすみに、「ああ、お金がもっとあったら、こんなことができるのに」という考えが浮かび、それから離れられないとしたらどうでしょうか。神様だけではなく、次第にお金を最優先する考え方をしてしまう危険性があります。

お金だけではなく、権力をもって生きることを第一にすること。そのためには、家族も友情も第二においてしまいます。これも、偶像崇拝といえるでしょう。

わたしたちは、それほど気づいていないかもしれませんが、わたしたちの生活は、唯一の神を崇拝することによって、統一されたものになるのです。「二心のない純粋な生き方」ができるのです。

偶像崇拝者とは、「人の心に消しがたく刻まれた神の理念を、神ではなく、神以外の何かに当てはめる」人のことです。

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