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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第14回 マタイ5章38-48 敵を愛する


福音史家マタイ

お久しぶりです。今日から心を新たにして、中断していたマタイの講読を続けていきたいと思います。今回はわたしたちを取り巻く世界情勢や国内での凶悪犯罪によってますます身近な問題となっている「敵を愛することができるのか」という問いを意識して、マタイ5章38-48節をご一緒に読んでみたいと思います。

前回、イエスが来られた目的は“律法や預言者”(=旧約聖書)を廃止するためではなく、完成するためであったこと、言い換えれば旧約聖書がめざしていたことを成就するためであったことを確認しましたが、今回のテキストを読む場合にもこのことを心にとめておきたいと思います。

マタイ5章38-48節

38   「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

39   しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

40   あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。

41   だれかが、一ミリオン行くように徴用する(共同訳 強いる)なら、一緒に2ミリオン行きなさい。

42   求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

43   「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

44   しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(命令)。

45   あなたがたの天の父の子となるためである(目的)。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(根拠)。

46   自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。

47   自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

48   だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(結論的命令)」

今日ご一緒に読むテキストは前回学んだ5章17-20節に続く21から48節に記されている一連の6つの段落((1)21-26、(2)27-30、 (3)31-32、(4)33-37、(5)38-42、(6)43-48)の最後の2つです。6つの段落はどれもたとえば「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」の場合のように、まず「あなたがたも聞いているとおり・・・・と命じられている」という、昔の掟を想起させるイエスの言葉で始まります。続いて「しかし、わたしは言っておく」という荘厳な宣言に導かれてイエスの斬新な命令が記されています。

5章17節に「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とあったように、イエスの命令は新しい掟にはちがいありませんが、律法の意図するところをはっきり示す、権威ある新しい解釈というニュアンスがあります。イエスは古い掟を全面的に否定しておられるのではなく、すでに与えられていた神の掟が本来目指していることを明らかにしておられるのです。

山上の説教の終わりに著者は、「イエスが語り終えられたとき、群衆はその教えに非常に驚いたこと、それは律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである(マタイ7:28-29参照)」と述べています。この言葉からも、神の言葉の解説にあたってイエスの示された権威が、聴衆にどれほどの驚きと感銘を与えたかがうかがわれます。それは律法学者や他のユダヤ人聖書解釈者の権威をはるかに上回るものという印象を与えたのでした。

38-42節 「目には目を、歯には歯を」という同害復讐法は、もともと旧約聖書のなかで「人に損害を与えた者は、被害者からの制裁として、自分が相手に加えた害に相当する復讐を甘んじて受けなければならない(レビ24.19参照)」という掟の表現でした。しかしこの掟は、ともすれば怒りのあまり限度を超えて復讐しがちな人間に、不法に害を加えられた場合も、正当な制裁はゆるされるが、限度を超えて加害者に復讐してはならないことを教えるものでもありました。たびたび誤解されているように「目をえぐられたら、目をえぐれ、歯を折られたら歯を折り返せ」と、復讐心をあおる恐ろしい掟ではありません。

すでにイエスの時代(紀元1世紀の最初の30年ぐらい)にも、征服者ローマ帝国に対するユダヤ人の怒りと不満はくすぶっていましたが、その後、熱心党と呼ばれる過激派などの活動が盛んになり、雲行きは怪しくなっていました。

そしてついに第一次ユダヤ戦争(紀元66-70)が勃発し、エルサレムは神殿もろとも壊滅してしまうのです。マタイ福音書が書かれたのはちょうどそのような時代で、キリストを信じるユダヤ人の立場はきびしいものでした。異邦人たちからだけでなく、自分たちがそこに帰属していると自覚していたユダヤの会堂からも排斥運動が始まっていました。

「目には目を、歯には歯を」という掟によって、限度をわきまえた復讐はゆるされていた時代に、イエスは「しかし、わたしは言う」と述べて、非暴力だけでなく、悪人や敵意をもつ者に対しても寛大にその要求に応じることを命じておられます。

「だれかが、一ミリオン行くように徴用するなら、一緒に2ミリオン行きなさい」は、当時のユダヤの社会状況を背景に語られているので、わかりにくいかもしれません。「ミリオン」はローマ帝国で用いられていた距離の尺度で、およそ1,500メートルにあたります。イエスの時代ユダヤはローマの支配下にあったため、ローマ兵たちはユダヤ人を徴用して強制労働をさせることができました。

マルコ福音書にはイエスを刑場に引いて行くとき、たまたまそこを通りがかったキレネのシモンという人が十字架を担わせられたことが記されていますが、その記事にもここと同じ「徴用する(共同訳 無理に)」という動詞が用いられています。占領者側がこの権利を私的なことに乱用することもあったようです。ユダヤ人にとって侵略者であり、異邦人でもあるローマ兵から強制労働をさせられることは、非常に屈辱的で腹立たしいことであったにちがいありません。それにもかかわらず、イエスの要求はまことに徹底したものです。抑圧する者の要求にも泰然と鷹揚に対応することを命じられます。

イエスの命令には、もはやそれによって本人が徳を積むとか、相手が恥じ入って反省するだろうというような、旧約聖書の知者の教えに見られる修養の手段とか、敵が恥じ入って態度を改めることを期待するというような次元のことではなく、限度を知らぬ神の慈愛とゆるしにもとづくものです。

命令の根拠は次の段落の5章45節で明らかにされます。イエスは暴力放棄を説かれますが、それは単なる無抵抗ではありません。5章9節の「平和を実現する人は幸い」やこの段落に続く「敵を愛し、自分を迫害する人々のために祈りなさい」という命令をあわせて考えれば、ここでも単なる受け身の我慢を上回ることが含まれていると解すべきでしょう。この無抵抗は単なる抗議にとどまるのでもなく、悪人ではなく悪に、終止符を打ち、和解を願う積極的な態度です。

マタイ5.43-48

43   「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

44   しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(命令)。

45   あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

46   自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。

47   自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

48   だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(命令)」

43節の「隣人を愛し、敵を憎め」という命令は、文字どおりには旧約聖書に記されていませんが、こういう感情はたびたび旧約聖書のなかに見られますし、詩編の祈りのなかにも復讐を求める祈りが見られます。ただ詩編のなかで祈っている人はいつも自分に復讐する資格がないことを意識し、復讐をさせてくださいとは祈らず、神に復讐を訴えています。  そうしながらも祈り手は、神が正しいかたで慈しみに富みあわれみ深く、決して不正を行われないことを知っているのです。この点については旧約聖書の短編物語『ヨナ書』をぜひお読みください。わずか3ページ半の短編ですが、楽しく読めて深く考えさせてくれる物語です。

旧約聖書には「敵を愛せよ」という掟はありません。しかし敵対関係は放置しておいてはいけない、なんとかしなければならないという問題意識はありました。すべての民と同じくイスラエルの民も、歴史の流れのなかで一定の時代と場所の制約のうちに生きざるを得ない人間です。神は歴史の全課程をとおしてゆっくりと時間をかけ、辛抱強くご自分の民を導かれます。旧約聖書には、敵対関係を緩和するための間接的な手段がいくつか命じられています。

出エジプト記に含まれている法規のなかでも最も古い法規集のなかに、敵対する者とのかかわり方に関する次のような掟が見られます。「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。(出エジプト23.4-5)」

これは動物愛護の掟ではなく、たとえ敵であってもせめてこのぐらいのことはするように、そうすれば関係の改善の糸口が開けるかもしれないという意味合いがあると思われます。

復讐を断念するということだけでも、人間にとってどれほど不可能に思われるかは、オウム事件の被害者や池田小学校で殺人の刃の犠牲になった児童の家族、ショアー(ホロコースト)の犠牲者ユダヤ人や、ユダヤ人および強国の一方的な決定の犠牲になった元パレスチナ住民の体験などを顧みるまでもなく、わたしたちの卑近な体験からも周知のことです。しかし、イエスは単刀直入に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。この場合、キリストが求めておられる敵への愛の根拠は、ただ父である神が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」かただからであり、目指すところは天の父の子となることです。

聖書が新約時代になってはじめて、「敵を愛せよ」と説くことができたのには理由があります。イエスの生と死と復活という出来事があり、これをとおして示された神の愛を体験させていただいた弟子たちがあったからです。いずれ読み進むとはっきりすることですが、ペトロを筆頭にイエスの直弟子たちは皆、一度はイエスに背を向けた者たちですが、まさにその背きの時に、イエスをとおして示された神の際限のないあわれみを体験したのです。

パウロは次のように告白しています。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです(ガラテヤ2.20)。」「(わたしが) 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです(ローマ5.10)。」

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