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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第15回 マタイ6章1-18 優れた善行の実践について

概要

6章1節から18節は一つのまとまりをなしています。

イエスは施し、祈り、断食という旧約聖書とユダヤ教の伝統に深く根ざした3つの典型的善行を例にとって、天の父の子としていちばん大切なのは父である神様との絆をしっかり保つことであることを、ファリサイ派に多く見受けられた見せかけの信心と真の信心とを比較しながら説いておられます。ここでは、何をするかよりも本来良い行いであるそれらの善行を、どのような心で行うかが問われています。

まず1節で、他人の評価を得たいとの野心から、これ見よがしに善業をするのを慎むようにという原則が与えられ、理由として、そのような魂胆は行為を神の前に価値のないものとするからである、と説明されています。続く3つの段落で、イエスは施し(2-4)、祈り(5-14)、断食(15-18)の例を挙げ、どの場合にもまず避けるべき態度とそのような態度が生むネガティブな結果を示し、続いてどのように行うべきか、そうすれば何が起こるかが語られています。

どのお言葉も情景がまぶたに浮かぶようにわかりやすく、記憶に刻まれやすい表現をとって語られています。なお祈りに関する教えは、施しと断食に関する2つの段落に挟まれ、中央に位置づけられていますが、そこにキリストご自身の教えてくださった嘆願の祈り、わたしたちが<主の祈り>と呼んで親しんでいる祈りが挿入されています。テキストを読んで見ましょう。

マタイ 6:1-18のテキスト

▽善行をするさいの根本原則

1   見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」

▽施しをするときには

2   だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

3   施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

4   あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

▽祈るときには

5   祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6   だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

7   また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

8   彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

9   だから、こう祈りなさい。

▽主の祈り

『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。

10   御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
11   わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

12   わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

13   わたしたちを誘惑に遭わせず、悪(新共同訳 悪い者)から救ってください。』

14   もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

15   しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

▽断食するときには

16   断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている

17   あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。

18   それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

解説

罪深いわたしたち人間はよくよく心しないと、それ自身良い行いである慈善、その他の善行をさえ虚栄心などの愚かな動機で行い、結局は的はずれの行為に終わり、父である神のみ前に何の価値もないものにしてしまう危険があります。

人の心をよくご存じのイエスは、わたしたちにそれをいましめてくださいます。施しをするとき、富や豊かさは自分だけのものではなく、それらを享受していない兄弟姉妹と分かち合うために、神からお預かりしているものであることをわきまえ、神への感謝と同胞愛に促されて慎ましく行うべきことを、マタイ福音書は繰り返し想起させてくれます。神はご自分で直接公平にすべてを分配なさるより、ご自分の似姿に造られた人間をとおしてご自分の慈しみが世に輝くほうをお望みなのです。

聖書を読む場合いつも留意する必要がありますが、たとえば「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」などといういう一句だけを切り離して、文字どおりに解釈し、「右の手のすることを左の手にさえ知らせるな」とあるからには、難民救援を仲間に呼びかけるのも遠慮しなければ、などということはありません。

イエスのお言葉を、福音書全体の一部として読むことも大切です。マタイ5章14節には「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とありましたし、いずれ読む25章には、主からいただいたタレントや富は活用しなければならないことがきびしく語られています(25.14-30)。

祈りについてのお言葉「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」の場合も同じです。他のところに「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(18.19-20)」とあります。祈りは信心深さを見せびらかすためではなく神に聴き、神と交わることですから、これみよがしに祈るのは慎まなければなりませんが、教会で祭儀に参加したり、友達を祈りに誘ったり、苦しむ人を見舞い、祈りを込めてその傍らに寄り添うなどの必要があるのはもちろんです。「自分の部屋に入って戸を閉めなさい」はむしろ比喩的に、心を潜めて雑念を退けるという意味にも読み取れます。

要はイエスにならい、すべてにおいて御父のお望みを行うことを第一の目標とするということが大切でしょう。どれほど歳末助け合い募金に応じても、敬虔に祈りをささげても、断食をしても、神を賛美し、その憐れみと慈しみが世に輝くためにという第一のことを忘れ、自己顕示が主になってしまえば、それらいっさいの行為は神のみ前ではむなしいということです。

断食も聖書によく見られる信心業の一形態であり、単なる苦行ではありません。真心からの回心、とくに罪の償いや嘆願をこめて旧約時代から行われていました。イエスご自身公に福音を宣べ伝えるまえに断食をなさったことはすでに見たとおりです。人にそれと気づかれないように神のまなざしのもとで行え、とイエスはいましめてくださいます。

主の祈り

3つの教えの中央で、祈るさいの注意を語ったのち、イエスは嘆願の祈りのモデルを与えておられます。この祈りはルカとマタイに載っていますがそれぞれ少し違った形で記されています。ルカの形(ルカ11.2-4)のほうが短いので、たぶんマタイはそれを敷衍(ふえん)したのかもしれません。これはイエスが教えてくださった祈りとして聖書に記されている唯一の祈りで、<主の祈り>という名で古くから教会の中で大切にされています。

この祈りは大きく分けて2つの部分からなっています。最初の3つの祈りは神に関する祈りであり、後の4つはわたしたち人間のための嘆願です。こうして<主の祈り>にも、マタイ福音書の著者の好む「7」という数が用いられています。「7」は、聖書の世界では完全さとか全体を象徴する数でもあります。この祈りはユダヤ文化に深く影響された言葉遣いが多いので、少し説明が必要かもしれません。

<主の祈り>は、原文では「父よ」という言葉から始まります。旧約聖書の預言者の文書などにも神を父と呼ぶ例は見られますが(ホセア11:1参照)、それほど一般的なことではありませんでした。しかしイエスの祈りを伝える福音書の記事では、イエスはいつも神に「父よ」と呼びかけて祈っておられます。

洗礼の時にイエスが水から上がられると、天がイエスに向かって開き、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと書いてあったのを思い出してください。神から「わたしの子」と宣言されたキリストに結ばれた弟子たちは、新しい絆で神の子キリストに結ばれて、神を親しくわたしたちの父と呼ぶ恵みをいただいています。

わたしたちはキリストとのつながりゆえに神の子どもであり、互いに兄弟姉妹なのです。<主の祈り>は主の弟子たちの共同体を意識した祈りです。神をわたしたちの父と呼べるとはなんと幸せなことでしょう。

▽「御名があがめられますように。」

奇妙に感じられるかたもおられましょうが“御名”とは神を指す呼び名です。旧約聖書には神がモーセをとおしてイスラエルの民に与えてくださった律法の要約ともいえる十戒(10の掟)(出エジプト20章参照)が記されています。その2番目の掟は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という命令で始まります。

何かに名前をつけるという行為には、そのものを定義づける意味合いがあります。神は人間をはるかに超えるおかたですから、人間が神を定義づけることができるはずはありません。

神はかつてイスラエルの民に、ヘブライ語アルファベトの4つの文字からなるご自分の名をあかしてくださいました。ロ-マ字で表せば“YHWH”となります。先の神の命令を守って、イスラエルの民はそのお名前を口にすることは慎んでいました。聖書にその4つの文字が出てくるたびに、彼らは今でもその4文字を「わたしの主(アドナイ)」と読み替えています。そして現在でも彼らは日常会話や祈りのさいに神の名を口にすることはなく、神をヘブライ語で「ハッシェム」、すなわち「お名前」と呼んでいます。ですから御名があがめられますようにということは、神さまが尊ばれますようにということを意味します。神さまがすべての人から尊ばれますように、という嘆願です。

▽「御国が来ますように。
  御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」

この祈りは、先の嘆願を別の面から捕らえているということができましょう。御国とは神の国を意味し、神の国とは神の支配を意味します。神の支配が地上の隅々までゆきわたることを願う祈り、つまり神の救いのご計画が地上でも完成するようにとの嘆願です。

天、つまり神のご意志が全く行き渡っている天上界と同じように、イエスが世に来られることによって、最終段階に入った地上における神の救いが完成されますようにとの嘆願です。

▽「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

ここから、わたしたち自身のための嘆願が始まります。原文ではパンとありますが、新共同訳にあるとおりここでは糧を意味します。

「今日」に注目しましょう。主の弟子はいつも今日を、今を大切に生きなければなりません。わたしだけではなく、わたしたちに必要な糧です。わたしにとってこの「わたしたち」は、どこまで広げられているでしょうか。とくに悲惨な戦争や貧富の差が拡大し続ける今日、反省を迫られます。

◇「わたしたちの負い目を赦してください、
  わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

負い目とは罪を意味します。人はだれでも罪を犯しますが、イエスのおかげでわたしたちは確かに神から罪の赦しをいただくことができます。ただ罪を赦していただく必要のあるわたしたちは兄弟姉妹に対して寛容でなければならないことを、イエスは想起させてくださいます。

▽「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

新共同訳聖書が悪い者と訳している単語は、悪とも悪人とも訳すことができますが、悪い者と訳されているので、「悪」とほぼ同義の悪魔(サタン)の意味でしょう。この祈りが、世界中で毎日ささげられたらいいですね。

祈りに関するイエスの教えを結ぶにあたって、マタイはもう一度念を押すように、寛容であれとのイエスのお言葉を記しています。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(6.14-15)

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