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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第17回 マタイ7章1~12節

概要

マタイ 7章1~12節は、1~5節と6~12節に分けるこができます。前半では、神の国でわたしたちは自分のことを棚に上げて人を厳しく裁くことがあってはならないと戒められています。後半では祈りの神髄につて説かれています。

マタイ7.1~5のテキスト

1   「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

2   あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

3   あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

1節を逐語訳すれば 「あなたたちは裁くな、裁かれないためである」となり、だれに裁かれないためかといえば、神から裁かれないためで、人々からの意味ではありません。ユダヤ人は神のみ名をみだりに口にしない習慣をもっていたので、神の行為を表現するさい、たびたび動詞の受け身の形を用いました。また、あなたがたが人の罪を大目に見れば、神も大目に見て 無罪放免にしてくださる、ということでもないでしょう。むしろ悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる神の寛大さ(5.45参照)に習うようにうながされているのです。

神がわたしにこれほど寛大でいらっしゃるなら、どうして自分の罪や欠点を棚に上げて兄弟姉妹たちを厳しく責めることができましょう。この点については、できればマタイ18章21~35節も参照なさることをお勧めします。

丸太とおがくずとは、いくらなんでもおおげさすぎるという気もしますが、当時のユダヤ人はよくこういう大仰な表現をしたらしく、ほかのラビ(ユダヤ教の教師)たちの表現にも見られます。

まえにもお話ししたかもしれませんが、一巻の書の中の表現は全体の中に位置づけて理解する必要があります。1節は一見裁くことの絶対的な禁止のように思えるかもしれませんが続く6節はこれを補足しています。

6   「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

犬も豚も旧約聖書によれば汚れた動物であり、食用とすることが禁じられていただけではなく、たまたま犬や豚に出会って触れてしまった人は、それだけでけがれを負い、神殿の祭儀にもあずかれなくなりました。ユダヤ人が異邦人を軽蔑して呼ぶ場合、犬とか豚と呼ぶこともあったようです。ここではもっと一般的に、人を裁いてはいけないが、同時に分別なく、真珠にたとえられるほど尊い聖なるもの(福音)を、その価値をまったく理解しようとしない人に不用意に提供するなと説かれていると思われます。

マタイ7.7~11のテキスト

▽求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい!

8   だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

9   あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。

10 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

11 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

イエスが教えてくださる祈りは、決してわたしたちの自己本位な願いを満足させる手段ではありません。11節がそれを明らかにしています。祈りはねばり強く、あきらめずに続けなければなりませんが、そうしたからといって必ずしもわたしたちの願い求めるそのものが与えられるとはかぎりません。

人間の親でさえ求める子供に良い物を与えるではなか、まして天の父は求めるわたしたちに良い物を与えられる、と保証されています。わたしたちの祈りには、たびたび意識的か否かを問わず自己中心的な願いがこめられています。しかし真剣に祈り続けるなら、祈り手自身の心が次第に良い方向に変えられてゆくのです。この段落はある意味で祈りの勧めである以上に、父である神様の寛大な愛を告げています。

これは大切な点ですから、イエスの生涯のひとこまを見ておきましょう。ご存じとは思いますが、イエスはユダヤの権威者たちに誤解されてローマの官憲にひきわたされ、死刑の宣告を受けて十字架刑に処せられました。そのような死を予感されたイエスは、死の前夜に、行きなれたオリーブ畑で御父に向かって祈られました。そのことがマタイ20章36節以下に記されています。

そのときイエスは、最初、できれば苦しみを遠ざけてくださるようにと祈っておられます。懸命に祈っておられるうちに祈りの内容が少しずつ変えられてゆき、やがて「わたしが飲まないかぎりこの杯(苦しみ)が過ぎないのでしたら、あなたのみ心が行われますように」となります。そして祈りのうちで父との完全な一致に達したイエスは、すべての弟子に背かれても、独り決然と、万民に救いをもたらす死に立ち向かわれました。

イエスのように父である神様が良いおかたであることを信じ信頼して身を任せながら祈る、これが求め、探し、叩きつづける者の姿です。

マタイ7.12のテキスト

▽黄金律

12   「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

普遍妥当の掟として黄金律と呼びならわされている「人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい」という掟が、イエスに始まるものではないことは、今では広く認められています。旧約聖書にもトビトの書に、この逆の表現「自分の嫌なことはほかのだれにもしてはならない(4.15)」という言葉が見られます。洋の東西を問わずいつとなく知れ渡っている掟です。

この黄金律がマタイ福音書のどこに位置づけられているかを、注意深く見てみましょう。直前には神の寛大な愛を確信して疑わない祈りが記されていました。そして直後には「これこそ律法と預言者である」と書き添えられています。この言葉は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである(5.17)」を思い出させてくれませんか。たぶん著者はこの二つの言葉で、山上の説教の中心部を括ることにより、以下のことを表現したかったのでしょう。

イエスの基本的掟が「悪人にも善人にも太陽を昇らせ雨を降らせる天におられる父である神の完全さに倣って、敵をも含む隣人を愛すること(5.45参照)」であったように、イエスが弟子たちに歩むべき道として示してくださった義も、求める者に良い物を与えてくださる天の父に見習う、隣人への愛なのです。

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