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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第18回 マタイ7章13~29節

概要


至福の教会

マタイ7章13~27節は、ある意味で山上の説教の結びです。ここに述べられていることが目指すところは、5章17節~7章12節の内容を真剣に受け止め、実生活でそれを実行するように励ますことです。じっさい、この部分の鍵言葉は、「行なう」とか「作る」を意味するポイエオーという動詞で、原文では9 回も用いられています。テキスト中赤字の単語がそれです。ただキリストの言葉に耳を傾けるだけでなく、それを実際に生きることが大切だと強調されています。

マタイ7.13~14のテキスト

▽狭い門

13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

「狭い門」は、キリストに従う者がキリストの説いてくださった生き方を徹底的に生きようとするさいに、避けることのできない困難を象徴しています。14節の「命」は永遠の命を意味します。門のイメージが道のイメージを呼びます。門というイメージは、道という旧約聖書の世界では親しいイメージを呼びおこすのです。神の国に入れていただくためには、すなわち永遠の命にあずかるためには、キリストの教えを自発的に選び取らなければなりません。ここに決断が求められます。ただ群衆の動きに流されて生きるのではなく、永遠の命を目指した生き方が求められます。

マタイ7.15~20のテキスト

▽偽預言者を警戒しなさい

15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。

16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。

17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ

18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。

19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

偽預言者とは何者でしょう。イスラエルの民はその長い歴史の中で偽預言者の悲しい体験を重ねてきました。彼らは耳に心地よい言葉で民を欺き、神から派遣された使者を装っていましたが、実はイスラエルを餌食とする狼だったのです。キリストの教会もそのような災いを免れることはないでしょう。だから間違った教えを説く教師をもちろん警戒しなければなりません(1ヨハネ4.2~3)。しかし、ここでマタイが強調しているのは、むしろ偽預言者の悪い模範に影響されて狭い道から広い道へと脱線しないように警戒せよという点です。マタイは24章でも終末について語りながら、末の日に偽預言者が現れれて多くの人を惑わすが、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(13)」と述べて警戒を勧めています。
偽預言者を見分ける鍵は彼らの生き様に注目することだ、とイエスは説いておられます。行いはその人の内面を反映します。それはちょうど果樹の良し悪しがその果実によって明らかになるのと同じです。

マタイ7.21~23のテキスト

▽天の国に入る者

21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。

23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

「主よ、主よ」  ギリシア語では「キーリエ、キーリエ」ですが、つい半世紀前まで世界中のカトリック教会は「キーリエ エレイソン(主よ、憐れんでください)」と祈っていました。たぶんこの場合も、「主よ」という表現は典礼祭儀の中で主に向かって呼びかける祈りの表現を想起させながら語られているでしょう。したがって、ただうわべだけ信心深く振る舞うことをさしていると思われます。

マタイが最終的な裁きの日を意識してこれを記していることは、22節の「かの日」という表現や「言うであろう」という動詞の未来形から明らかです。旧約聖書では、世の終わり、神が一切を裁かれるときのことをたびたび「かの日」と呼んでいます。著者は、人間にとって自分が刻々と生きている「今」こそが、「かの日(終末の裁きの日)」と決定的なかかわりを持つことになるという現実を深く意識しています。

マタイ7.24~29のテキスト

▽結び

24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。

27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。

29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

山上の説教はこのたとえ話(24~27)で閉じられ、終わりに聴衆の反応が記されています。

たとえ話は2つの対照的な部分によって構成されています。山上の説教の聴衆のなかに見られる2つのタイプについて語られています。二者の違いはどこにあるかといえば、聴いた教えを実行に移したか否かにあります。二者の建てた家は彼ら自身のあり方を象徴しています。雨、洪水、大風などは5章11節以下に記されていた迫害やののしりなど、イエスに従う道の途上で出会う試練を暗示しています。言い換えれば、「真の幸い(5.1~7)」(第11回参照)で説かれているとおりに生きようとすれば避けることのできない試練です。これらを誠実に切り抜けていくことによって堅固な土台が築かれるのです。これを避けて人生を過ごした者は、砂の上に家を建てた者のように失敗に終わります。

群衆がイエスの話に驚いたのは、律法学者のようにではなく権威ある者として教えられたからだった、ということを心に留めておきましょう。ここではじめて現れたイエスの権威というモティーフは、以後繰り返し現れる大切なものです。

予告

次回からは新しい段落8~9章に入りますので、簡単な導入をしておきましょう。

マタイは山上の説教のあとに、集中的に9つの奇跡を述べています。その場合9つの奇跡を3つのグループにまとめ、おのおのが「3つの奇跡+アルファ」でなる3点セットの形をとって話を進めています。そのパターンを見ると、著者は決して、単に奇跡を行う者としてイエスを描いているわけではないことがよくわかります。山上の説教の終わりに「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と言われていたイエスの権威とは具体的に何か、が明らかにされていきます。

それでは次回をお楽しみに。

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