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シスター今道瑤子の聖書講座

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聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第21回 マタイ9章18~38節

概要

前回に続き、三点セットの最後マタイ9章18~38節までを読んでいきたいと思います。

第三セットのテーマは死を克服するイエスの新しさ、そういうイエスに対する信仰です。

構成

§指導者の娘の蘇生とイエスの服に触れる女のいやし 9.18~26
§二人の盲人のいやし 9.27~31
§悪霊につかれ口の利けない人のいやし 9.32~34
§付録 9.35~38

第二セットとのつながり 前回著者は「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものだ」というイエスの言葉で結んでいましたが今回読む第三セットでは死を克服するという新しさをもたらす方としてのイエスが示されます。

マタイ9.18~26のテキスト

▽指導者の娘の蘇生とイエスの服に触れる女のいやし 9:18~26

18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」

19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。

20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。

21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。

22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。

23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、

24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。

25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった

26 このうわさはその地方一帯に広まった。

ここでは二つのできごとが組み合わされて語られていますが、二つの事件が手際よく組み合わされています。中心は「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉です。

指導者 マタイが資料として用いたと思われるマルコ福音書の同じ場面ではヤイロという名の会堂長が登場しますがマタイは無名の指導者を登場させています。指導者の言葉に注目しましょう。「わたしの娘がたったいま死にました」とあります。娘が死んでしまったにもかかわらず、この指導者はイエスの権威に信頼して「でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と懇願します。イエスは無言で弟子たちといっしょに彼の後についてゆかれます。

それを見ていた女性が人ごみのなかをイエスに忍びよりました。長年出血に悩んでいたのです。女性の出血は律法の定めによれば汚れであり、これに触れるものはみな汚れを負うことになるため、清めの儀式にあずからないかぎり神殿にお参りすることもできなくなるのでした。そういうわけで、女性は12年ものあいだユダヤ社会で白眼視され忌み嫌われた存在だったのです。衣の房とはイスラエルの敬虔な男性が神の掟を思い出すすべ術として上着の四隅に下げるように定められていた房です。ファリサイ派の人々の中には虚栄心からこの房を大きくする者もあったようです。

日陰者として世間からつまはじきされてきた女性は指導者のように公然とイエスに嘆願することはできませんでしたが、彼に勝るとも劣らないほどイエスの権威を信じていたので、ひそかにイエスの衣の房に触れました。その程度のことなら人目につかずにできるし、せめてこうするだけでも治ると信頼していたのでした。

22節に注目しましょう。いやしは女性が信仰をもって房に触れたことによってではなく、イエスの権威ある言葉によって生じています。イエスは女性の信仰をみてとり、彼女を辱めることなく振り向いて、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。「そのとき」つまり女性が触れた瞬間ではなく、イエスのお言葉があったとき「彼女は治った」とマタイは記しています。マタイはここでもイエスの言葉の権威を強調していることに注目しましょう。それと同時に女性もイエスの権能を堅く信じていたのです。

さてイエスが指導者の家についてみると、そこには笛を吹く者たちや大勢の人が騒いでいました。中国やエジプトの葬儀の場合のように、泣き女や笛吹きたちは聖書の世界でも死者の弔いには欠かせないものでした。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われるイエスを彼らはあざ笑いますが、イエスは少女の死をご存じないわけではありません。眠っているという婉曲法で地上の生の終わりである死が決定的なものではないことを暗示しながら、死を支配する者として行動しておられるのです。

イエスは群衆を戸外に出されます。死からのよみがえりの奇跡は、人間が目撃することのできない神の神秘だからでしょうか。ヨハネ福音書11章のラザロのよみがえりのほかは旧約聖書(列王上17.17~24、同下4.17~37)でも新約聖書の諸例でも、いつも特定の選ばれた者以外の者は外に出されています。

群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになりました。すると、少女は起き上がりました。つまり蘇生したのです。この起き上がると訳されているギリシア語は、新約聖書の著者たちがイエスの復活を表現するときに用いている動詞と同じものです。主が「復活された」と日本語で訳されている場合、ギリシア語ではいつもここと同じ動詞を受け身の形で用い、「起き上がらせられた」と書いてあります。イエスの場合、起き上がらせる方はもちろん御父です。少女の蘇生はイエスの復活とかかわりがあることを暗示しています。

の死に接した指導者は、イエスが死をも支配する権威のある方と信じてイエスにすがり、イエスはこの人の信仰に応えて少女をよみがえらせられました。この少女のできごとの場合、復活ではなく蘇生ですが、死からふたたび生によみがえらされたという事実は、イエスが死さえも支配する方であることを示しています。死の克服、これこそ罪のゆるしの根底にあるものであり、イエスがもたらしてくださった究極的な新しさです。

この物語にはもうひとつ別の付随的な新しさも見られます。旧約聖書には預言者が神に祈り、死者をよみがえらせていただく場面がいくつかありますが、そのどの例をとってもよみがえらされた人物は男性ばかりです。新約聖書ではイエスは友人ラザロという男性をよみがえらせただけでなく、この場合のように少女をもよみがえらせておられますし、ペトロも使徒言行録によれば主に祈ってタビタという女性をよみがえらせています。父である神はイエスをとおしてユダヤ人と異邦人、男性と女性などという差別を超えて万民に救いの手を伸べてくださいました。

マタイ9.27~31のテキスト

▽二人の盲人のいやし

27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た

28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。

29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、

30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。

31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた

前段とのつながり:前段では信じるということが鍵言葉のひとつでしたが、ここでも同じ動詞が二度も用いられています。ここではイエスの憐れみの業が、救い主(=ダビデの子)イエスの神の民イスラエルに対する憐れみの業であり(27)、それはイエスに対する信仰によって可能にされ(28)、イエスの権威ある言葉によって実現する(29~30)ことが、盲人に信仰宣言の求められていること(28)によってもいっそう明白になっています。

ダビデの子 マタイ福音書冒頭のイエスの系図は「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」と始まっていました。救い主をダビデの子という呼称は旧約聖書には見られません。ただ預言者ナタンがダビデに伝えた預言(サムエル下7.12~13)に基づいて、この呼び名はユダヤ人の間で広くメシア(“油を注がれた者”の意味から転じて“救い主”)の呼称として用いられていたようです。

イエスが活動されたころのユダヤの政治状況を思いだしておきましょう。当時すなわち一世紀の半ばのユダヤは独立を失い、ローマの支配下にありました。誇り高いユダヤ人の間には約束の地の略奪者であるローマからの独立を取り戻してくれる政治的な救い主としてのメシアを望む者が大勢いました。けれども旧約聖書の預言者たちの言葉をとおして神がイスラエルに約束された救い主は、そのような政治的解放者にすぎない方ではありません。

ここでは二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」というのに対してイエスが「わたしにできると信じるのか」と問い返しておられます。ダビデの子という称号はここでは政治的な意味で用いられてはいません。この背後には詩編72の王のための祈りに見られるような方としてのダビデの子があると思われます。詩編72は王についての詩編ですが、王のために次のように祈っています。

詩編72
12   王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を
助けるものもない貧しい人を救いますように。
13   弱い人、乏しい人を憐れみ
乏しい人の命を救い
14   不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。

第三セットのテーマは新しさでした。先に死を克服する方としてのイエスを示した著者は、それがほかならぬ神の国を実現する救い主、ダビデの子イエスのもたらす新しさなのだということを示すために、ここで「ダビデの子」という表現を用いていると思われます。

マタイ9.32~34のテキスト

▽悪霊につかれ口の利けない人のいやし

32 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。

33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。

34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。

「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」という群衆の賛辞を、マタイはここで初めて書いています。これは弟子になる可能性のある群衆の、イエスに対する評価と、イエスに敵対する姿勢を固めてゆくファリサイ派の人々との評価の対照的な違いを際立たせています。著者はここでわたしたち読者にも態度の決定を迫っているのです。

第三セットの付録 マタイ9.35~38のテキスト

▽35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。

36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

この段落は8~9章を締めくくると同時に、「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という祈りの勧めをもって、10 章からの新しいテーマの導入となっています。この祈りは唐突にすぎるように思えるかもしれませんが、そうではありません。36節でまずイエスがさまざまな場をめぐって会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や災いをいやされたことを述べるのですが、そのさい群衆が飼い主のいない羊のような有様であるのを憐れまれたと述べています。このイメージは旧約からとられたものです。

旧約聖書にはいくつか例がありますが、マタイのこのテキストの背景にあるのはエゼキエル34章です。預言者エゼキエルは紀元前6世紀に活躍した預言者です。現在のイラクの地にあったバビロニア帝国が繁栄を誇っていた時代でした。ユダヤ人はこの国と戦って惨敗し、エルサレムは廃墟と化し、多くのユダヤ人は囚われの身となってバビロニアに引いて行かれました。このことを聖書ではバビロンの捕囚と呼んでいます。この捕囚が起きた理由を述べる神の言葉として預言者は次のように記しています。

「彼ら(ユダヤ人たち)は飼う者がいないので散らされ、
  あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」(34.5)

いいかえれば、しかるべき統治者が不在だったから災いが起きたのだとしています。さらに預言者は、民の背きにもかかわらず民を憐れむ神について語り、

「彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。
  それは、わが僕(しもべ)ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」(34.23)

と主は言われると述べ、主はいつかイスラエルのために一人のよい牧者を立ててくださるとはげましています。しかもそのとき神が立ててくださる牧者は、神によって「わが僕ダビデ」と呼ばれています。この人物はもちろんダビデ王ではありえません。彼は紀元前1000年ごろ王座についた遠い過去の人物ですから。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と記すことにより、マタイはイエスのうちに「神から群れのために立てられた唯一の牧者」、神から「わが僕ダビデ」と呼ばれる救い主メシアを見ているのです。

イエスは指導者層に顧みられない状態にある群衆を深く憐れみ、弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」イエスは全人類を心にかけておられるので、神の救いが一刻も早く実現するために言葉だけではなく、存在をあげて人々に神の愛をあかしする者たちをその活動の最初から「わたしに従え」と招いておられました。今、弟子たちにも、神がそのような人々を世にたくさん送ってくださるように祈りなさいと命じておられます。こうして10章の冒頭には、イエスの言葉と業を継承しながら民とのかかわりを保ってゆくはずの弟子たちの任命が語られることになるわけです。

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