マルコで祈る
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木のようですが、歩いているのがわかります
マルコ8.24
この人は木ならよく知っている。
なぜなら木は避けてくれないので、
何度もぶつかっているからだ。
ところで人間にとって、
人は動く木だ。
友好的に近づいてくるのか、
敵対してぶつかることになるのか、
わからない。
今の段階での視力は非常に不完全だが、
イエスを「わたしだ」ではなく幽霊と取り違えた弟子たちの視力も同じようなものだった。
教会の視力もそうだ。
パンの中に主を見分けることができない。
とにかくこの目が見えなかった人は、
自分の視力が十分ではないということがわかっている。
弟子たちも同じだ。
イエスについて少しは言い表すことができるようになっている。
しかし、
イエスを理解するまでに、
まだまだ長い道のりが続く。
人の子が架けられる木にまともにぶつからなければ、
神の子がだれなのかを理解できないだろう。
人を木と見まちがえるというのは、
わたしたちがしていることのイメージである。
イエスをわたしたちがもっている欲望や恐怖心を投影したものと見まちがえなのだ。
『思い起こし、物語れ』上 より