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信仰の挑戦 … 女子パウロ会 各国創設記

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第1回 イタリア ローマ

 

1926年の最初の日々、アルバのパウロの家の中庭は、特別な熱意にあふれていました。パウロ家族がローマに新しい修道院を開く準備をしていたからでした。

1926年1月13日の夕方、パウロの娘たちから次のような感動的なあいさつを記した手紙が届きました。

出発の前に、聖堂でシニョール・テオロゴ(「神学の先生」の意味。当時、創立者ヤコボ・アルベリオーネ神父は、会員からこう呼ばれていた)からすべての祝福をいただきました。教皇様のいらっしゃる近くにいる姉妹たちを知ることはうれしいことです。けれども大きな離脱も感じられます。離れているにもかかわらず、わたしたちは一致しており、同じ考え、同じ理想、同じ望みをもって修道会の同じ唯一の樹木に結ばれています。

1月15日、福者ティモテオ・ジャッカルド師(1896-1948)に伴われた14名の少年たちと、マエストラ・アマリア・ペイローロ(1899-1980)に引率されて15歳から20歳までの14名の少女たちが出発しました。

創立者とジャッカルド神父 ステファネッリ写真展
創立者(右)とジャッカルド神父 初代総長マエストラ・テクラ(左)と
  マエストラ・アマリア

14名の聖パウロの娘たちを迎え入れた家は、ポルト・フルビアーレ通り9にありました。5つの部屋はそれぞれ寝室、勉強室、食堂、台所に使われていました。この小さな台所で、聖パウロ修道会の共同体の食事も準備されました。

元サロモーネ印刷所(ビア・オスティエンセ73の角)の後ろの農産物を入れる倉庫に取り付けられた印刷所が、少女たちと少年たちが交替で働いていた場所でした。「ラ・ボーチェ・ディ・ローマ」(ローマ市民の声)という週刊誌を印刷することから始まり、いくつかの教区のためのいろいろな出版物のほかに、63の教区報を印刷していました。

ビア・オスティエンセの1階には、事務所に使われていた慎ましい場所がありましたが、そこに小さな書院も開設されて、マエストラ・アマリアが望んでいた巡回図書もできました。

彼女たちはしばしば聖パウロのお墓参りに行っていました。聖パウロが何世紀も前に鎖につながれ、歩いたビア・オスティエンセのあの空間、広がりは、彼女たちに喜びと大きな感動を与えてくれるものでした。聖パウロ大聖堂では、愛情と配慮に満ちた大修道院長イルデフォンソ・シュスター(1880-1954)を知ることができました。

1926年9月、最初の生徒たちを迎え入れ、ポルト・フルビアーレ通り9にある5つの部屋では間に合わなくなりました。新しい住居が必要になり、ビア・オスティエンセ75に見つけることができました。こうして1926年11月の半ばには、2つの共同体が2つの隣接するアパートに住むことになりました。印刷所は同じ建物にある大きなサロンに収まりました。たとえ非常に貧しくても、適当な広さがありました。

実際、この2つの「アパート」は簡単な倉庫でした。1階は元魚市場の倉庫で、2階は金物類を入れる倉庫でした。アルベリオーネ神父は、父性的な心遣いをもって、手紙や頻繁な訪問によってローマの修道院をよく見守っていました。ジャッカルド神父に宛てた手紙にこう書いています。

□1926.12.24
 娘たちが今どのように過ごしているかを知らされて、わたしはとても喜んでいます。また、マエストラ・アマリアがほとんど一人で担っていた重荷が、少しでも軽くなったことも安心しています。この娘たちが善意をもって主から与えられた能力をすべて神への奉仕に差し出すことは希望にあふれることです。

□1927.1.1
 長続きし、実り多い働きは、贖いのみ業をよく反映しています。イエスはこの点でも道です。馬小屋のように始まなければなりません。小さく、隠れて、なおざりにされ、熱心に取り組み、けれどもいのちの芽生えをもたらすこと……このようにローマの修道院は、イエス・キリストに愛され、美しく、強く望まれた家です。大人として誕生することも、性急に成長することも、あるいは温室でもなく、麦わらの上の果実のように無理に成熟させることも望まれません。そのような育て方は手ごたえがなく、味もなく、エネルギーもなく、いのちを与えることができません。いのちを与え、あらゆる果実を実らせ、枝を生やそうと望まれるのは主なのです!。

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