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信仰の挑戦 … 女子パウロ会 各国創設記

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第6回 ブラジルにおける創設 -1)  ─ あわただしい出発 ─


最初の宣教女、シスター M.アドロラータ・バルディ(1910-1999)の生き生きとした話を聞きましょう。

 

 

1931年。ある日のミサの帰りに、聖パウロ広場にある修道院の製本所の近くで、プリマ・マエストラが小声でわたしを呼び、こうおっしゃいました。「あなたの故郷に行く列車が出発します。お急ぎなさい。あなたの家に書類を取りに行ってきてください。そして修練を続けるために、すぐにアルバに戻ってください」と。従順により、上長の言葉にすぐ従う用意はできていました。そして、何よりも家族に再会できるという思いで大喜びでした……他のことは考えていませんでした。

家から戻ると何事もなかったかのように修練期を続けました。2か月が過ぎて、修練期の終わりが近づいていました。いつものように、一人ひとりの心に初誓願宣立の前の喜びと不安がありました。けれども、わたしの驚きは尋常ではありませんでした。1931年10月4日の夕方6時ごろ、聖体訪問の祈りから戻ると、マエストラ・ブリジダがわたしにこう言ったのです。

「早く、早く、町に行って予防接種をしていらっしゃい。帰りに、もし行きたければ教会に行って、ゆるしの秘跡を受けていらっしゃい。それからプリマ・マエストラのお部屋に行きなさい。そこで誓願を立てます。サインをするために、7時30分にはローマに出発しなければなりません。それから引き続きジェノバに行き、そこからブラジルに出発します!」。

残された時間はほんのわずかで、ほとんどすぐに出発するということでした。自分に何が起ころうとしているのかまだ分かっていませんでした。予防接種をするためにアルバに向かっている間、繰り返し自分に言っていました。「1時間後にブラジルに出発しなければならない……誓願を立てなければならない……だれと一緒に出発するのだろうか? だれが行くのだろうか? 上長はいったいだれなのだろうか?」けれどもこのような心配は、誓願のことで心がいっぱいになり、それ以上深く追求することはできませんでした。

夕方7時に、わたしはプリマ・マエストラの事務所にいました。マエストラ・ブリジダと他のマエストラ方もいらっしゃいました。そこでわたしは修道誓願を宣立し、プリマ・マエストラはわたしに十字架、ロザリオ、福音書をくださいました。プリモ・マエストロも立ち会っておられ、わたしにこう言われました。「ブラジルのサンパウロに出発してください。大司教さまはパウロの娘たちを望んでいませんが、あなたがたは赤や黄色の服を着ていくでしょう」。そして祝福してくださいました。

事務所から出るとすぐ、多くの姉妹がわたしを取り囲み、わたしの新しい誓願名を知ろうと好奇心をもって近づいて来ました。他の姉妹たちは、わたしのスーツケースは聖パウロ広場にあるトラックにすでに積んだからと伝えに来ました。わたしはといえば、だれが宣教の同伴者になるのかと左右を見渡していましたが、だれもいませんでした。マエストラたちはわたしにあいさつしてくださいましたが、プリマ・マエストラはわたしを呼び寄せ、1,000リラを渡しながら、「なくさないように気をつけてくださいね」とおっしゃいました。

時間の余裕は少ししかなかったので、使徒職の部屋をもう一度見ることも、仲間たちにあいさつすることも、荷物を整理することも……何もできませんでした。「急いで、急いで、トラックが待っているから」と言われました。

わたしは一人でトラックのほうに向かいました。わたしが考えていた姉妹たちはどこ? わたしが行くはずのところに先に行ってくださる方、同伴してくださるマエストラはどこ?

トラックの中には神学生とブラザー、マエストロ・ジャッカルド、師イエズス修道女会のシスターマルゲリータがいました。彼女がわたしの宣教の同伴者でした。

トラックは午後9時ごろにはアスティに到着し、どうにかローマ行きの列車に間に合いました。わたしは旅のことや将来出会うであろういろいろのことを考えながら、初めて出会ったシスターマルゲリータにはことばをかけることもなく、静かに黙っていました。

10月5日の早朝、ローマに到着し、若いマエストラ・ロザリア・ビスコ(1916-2005)が、わたしたちを待っていてくださいました。彼女は、わたしたちが出発前の必要な手続きを済ませるために一日中わたしたちのお世話をしてくれました。その日の夕方、ジェノバ行きの列車に乗り、翌日11時、「コンテ・ロッソ」号でブラジルに向けて出航したのでした。

わたしはマエストラに出会えるという望みでわくわくしていました。アルバのマエストラのだれかに会えて、何らかの勧め、指導、あるいは何かの話などがあるものと期待していました。しかし違っていました。まったく何もありませんでした。唯一、マエストラ・カテリーナ・カルボーネ(1888-1970)が、当時のジェノバの院長で、その時間に必要なことを母性的な愛をもってすべて配慮してくださいました。涙と喜びが一緒になった状態で国を離れ、母院から遠ざかるという厳しい現実に少しも気づきませんでした。

汽笛が鳴り、「コンテ・ロッソ」号に乗船しました。ハンカチを振ってくださっているマエストラ・カテリーナをいつまでも見続けていました。涙でいっぱいのわたしたちは、船が港を離れ始め出港している間、船のデッキから手を振り続けていました。しかし涙のため、離れていく距離のためにデッキからは何も見えなくなったのでした。



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