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マザー・テレサの召命 いちばん貧しい人の間で

マザー・テレサ
photo by:Shoko Shirai

 マザー・テレサは、1910年8月26日、オスマン帝国領のコソヴォ、ウシュクブ(現 マケドニア共和国のスコピエ)でアルバニア人の家庭に生まれ、「アグネス」と名付けられました。両親はマケドニア地方に住むアルバニア人のカトリック信徒でした。

 アグネスは、12歳になったころ神に一生をささげたいと考えはじめました。
 1928年10月、19歳になったアグネスはダブリンでアイルランド系の修道会ロレット修道会の入会志願者として受け入れられ、ここで英語などを学びました。12月に修練をはじめるためにインドへ派遣され、ダージリンで修練院に入りました。

 2年の修練期を終えて、1931年5月25日に初誓願を宣立し、「幼きイエスのシスターマリア・テレサ」という修道名いただきました。1937年5月25日に終生誓願を宣立しました。

 ロレット修道女会は女子教育を行う修道会でした。この会がインドに初めて修道女を送ったのは、1841年のことでした。それ以後、女子の高等教育につくし、ロレットの大学の卒業生たちは、教育や社会福祉事業、独立後は司法界でも活躍しています。

 シスターマリア・テレサ(マザー・テレサ)は、コルカタ(当時は「カルカッタ」)東部にあるエンタリーのロレット修道会が経営する高等女学校に赴任して、地理と歴史を教えました。彼女は生徒たちを愛し、生徒たちに慕われ、1944年には校長に任命されました。このロレット修道会の生活のなかで彼女は、カルカッタの貧しい人びとの姿を見ていました。

 第2次世界大戦の後、シスターマリア・テレサは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との紛争で起こった大虐殺を目撃しました。自分たちが、修道院という壁のなかで守られていることを、シスターマリア・テレサは強く感じました。

 この大虐殺後、1946年にシスターマリア・テレサは、インドの避暑地ダージリンへ黙想に行く汽車のなかで、「すべてをささげて、貧しい人のなかでもいちばん貧しい人の間でキリストに仕えるように」という神の召し出しの声を聞きました。それは、今の修道院を出て、貧しい人びと、しかももっとも貧しい人たちと共に生きることを意味しました。

 シスターマリア・テレサは、ロレット修道会を心から愛していましたし、教育の使命の重要さもよくわかっていました。しかし、ここまで彼女を導き、また新たな特別の道に召してくださった神の呼びかけに「はい」と答えたのでした。

シスターマリア・テレサは、コルカタの大司教と、ロレット修道会の長上にこの新しい召命を打ち明けて、その承認を願いました。大司教は、直接彼女と会って、その謙遜で従順な姿に、この呼びかけが神からのものであると実感しました。ロレット修道会の総長も、彼女の真剣で熱心な願いに、教皇に直接手紙を書く許可を与えました。

 教皇ピオ12世から、ロレット修道会を出て、コルカタの大司教のもとに服従しながら修道者の生活をすることが許されました。その許可は1948年4月12日の日付でした。

 1948年8月16日、ロレット修道会を出たシスターマリア・テレサは、聖母をあらわす色、白地のふちに水色の線の入ったサリーを身にまとい、肩に小さな十字架をつけていた。彼女は、カルカッタを出てパトナに行き、医療宣教修道女会の付属病院と野外診療所で、看護学と野外施薬所経営について学びました。

 1948年12月、シスターマリア・テレサはコルカタに戻りスラム街に入って行きました。ここに、新たな神の呼びかけを受けたマザー・テレサが誕生したのでした。


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