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アレクサンドル・リトビネンコ追悼集会

2007/12/03

2006年11月23日、ロンドンで、ロシアの元FSB(ロシア連邦保安庁)の中佐、アレクサンドル・サーシャ・リトビネンコ氏が、何者かに放射性毒物を飲まされ、苦しんだ後亡くなりました。疲れた顔で白いベッドに横たわりうつろにカメラを見ている写真を思い出される方もいらっしゃるでしょう。

リトビネンコ氏の命日にあたる11月23日(金)、チェチェン連絡会議の主催で、アレクサンドル・リトビネンコ追悼集会=ロシアの闇とチェチェンの平和を考える=が開かれました。

チェチェン連絡会議の岡田氏からあいさつと今回の集会についての説明がありました。


あいさつする岡田氏


上映「追悼/A.リトビネンコ」

最初に、常岡浩介氏が2004年にインタビュー撮影したリトビネンコ氏のフィルムが流れました。政治的暗殺について語っているもので、毒物を飲まされた事件で、はじめてリトビネンコ氏を知った者にとっては、はじめて見る元気なころのリトビネンコ氏です。こんなにステキな人だったのか……。生前の姿から、毒物がそうとう強烈なものだったことが分かります。

その後、「追悼/A リトビネンコ」の上映がありました。リトビネンコ氏の生い立ち、FSB時代のこと、1999年に起きた、連続アパート爆破事件について、暗殺命令を断って、記者会見をして暴露したこと、暗殺されたアンナ・ポリトコフスカヤの犯人について、イギリスへの亡命、妻マリーナ、暗殺事件をニュースでしか知らなかった者にとっては、リトビネンコ氏について知ることができる貴重な映画でした。


中澤孝之氏のお話

ロシアの研究者で、リトビネンコ氏が書いた『ロシア闇の戦争』の監訳をされた中澤孝之さんのお話を聞きました。中澤氏は、時事通信のモスクワ支局長として、1964年~1982年のブレジネフ時代に2回、モスクワに派遣されました。リトビネンコ氏は、有能な工作員で、亡くなる1か月前、イギリス市民となっています。彼を暗殺するために、なぜポロニウム210が使われたのでしょうか。盗聴や尾行をされていたのでしょう。中澤氏のお話をご紹介します。


中澤氏(左)

FSBは秘密警察のようなもので、影の組織で表には出ません。12月20日に90周年を迎えます。秘密警察はスパイを取り締まるところで、国内の反体制派や共産党書記長を非難する人を裁判にかけ、強制収容所に送りました。ソ連時代のKGBは政権を支える機関です。ソ連が崩壊し、果たしてKGBが必要かと問われたが、それなりに存続し、エリツィン政権、プーチン政権を支える重要な機関のFSBとなっています。

FSBの一員であるリトビネンコ氏が、なぜ暗殺という目にあったのでしょうか。彼は、正義感が強い人でした。チェチェン戦争には体制側としてかかわっていたリトビネンコ氏ですが、イギリスへ亡命してから、チェチェンの人との連帯感を表すためにイスラム教に改宗しました。

1994年に第1次チェチェン戦争が起きました。チェチェンの独立を求める独立派と反独立派が戦いました。エリツィンはチェチェンを独立させたくありませんでした。チェチェンには、少しですが油田があり、そこからパイプラインがソ連に延びていたのです。チェチェンの独立を許すと、他の国にも独立を許さなければならなくなります。1996年に一旦休戦になりますが、これは事実上のロシア軍の負けでした。そして1998年に、第2次チェチェン戦争が始まりました。

1998年の秋、人生を変えてる大きな行動を起こします。リトビネンコ氏は、仲間5人とともに「ある人物を殺せと命令されたが、これを断った」と発表する記者会見を開きました。

1999年9月、連続アパート爆破事件が起きます。当局は、犯人はチェチェン人だと発表しました。先頭に立って犯人を追及したのが、当時首相だった現プーチン大統領です。プーチン大統領自身、FSBの長官でした。大統領は国民の直接選挙で選ばれます。選挙の前に、プーチンの名前を世に知らしめるために、このアパート爆破事件を起こしたと言われています。となると、犯人はチェチェン人ではなく、当局がやったことになります。これをリトビネンコ氏が暴露したのです。あるところで仕掛けた爆弾が見つかったとき、当局は、あれは演習のために置いたもので、袋の中身は砂糖だと発表しました。専門家が調べると、それは確かに爆薬でした。

ペレストロイカ以後、いろいろなことが起こりました。官僚とかかわっている事件もありました。ジャーナリストがこれを取材しようとすると、殺されました。ジャーナリストは、死を覚悟してい取材しています。ジャーナリストにとって、ロシアは危険な国なのです。そして、ロシアの暗殺事件の場合、犯人はなかなか捕まりません。リトビネンコ氏は、アンナ・ポリトコフスカヤの死後、犯人を捕まえるためにいろいろな資料を集めていたそうです。

そして、身の危険を感じたリトビネンコ氏は、息子を守るためにロシアを去りイギリスに亡命し、イギリスの情報部のスタッフメンバーとして働いていました。そして、2006年11月1日がやってきます。彼が飲んだ緑茶の中にポロニウム210が入っていたのです。この日の午後、彼は3人のロシア人と会っていました。

ポロニウム210で殺されたのでしょうか。ポロニウム210はどこから来たのでしょうか。ポロニウム210はアメリカの会社から微量ですが、買うことができます。しかし、致死量の値段は10億円します。これはお金持ちしか買うことができません。また、α線でしか検出できないもので、ポロニウム210は検出されにくいものとして使われたのでしょう。何か毒物を飲まされたと感じたリトビネンコ氏は、それをはき出しました。また、彼は屈強な体の持ち主だったので、23日間も耐えることができたのでしょう。しかし、彼は命を取り留めることはできませんでした。まだ犯人は捕まっていません。イギリスは、ポロニウム210の分析結果を発表していません。なぜ隠しているのでしょうか。早く公表すべきです。


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チェチェンの旗


12月2日、ロシアでは下院の選挙が行われ、大統領がはじめて候補者名簿の筆頭にあげられている与党「統一ロシア」が圧勝しました。プーチン大統領は、豊かさを与えてくれた人として、ロシアの多くの人々から信頼を得ており、彼が政界にいる限り、ロシアは発展し続けるだろうと期待しています。中でも若い人々の間の人気は強く、理想的な男性として尊敬されています。その一方で、反対する人に対しては、閣僚であろうと厳しい措置を執っており、EU各国はプーチン大統領を危険視しています。

まるで、戦時中の日本を見ているようです。ロシアのやり方に恐ろしさを感じながら、リトビネンコ氏が命をかけて求めていた正義と真理が大切にされる国となることを願いました。

映画「暗殺・リトビネンコ事件」(監督:アンドレイ・ネクラーソフ)は、12月22日(土)から、渋谷・ユーロスペースで公開されます。また、2008年2月3月には、チェチェン戦争のときに敵味方なく命がけで治療したチェチェン生まれの医師・ハッサン・バイエフ氏が来日されます。

※映画「暗殺・リトビネンコ事件」のサイト:http://litvinenko-case.com/
※チェチェン連絡協議会:http://chechennews.org/clc/
※チェチェンニュース:http://chechennews.org/

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