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どうしてシスターに?

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シスター マリア・テレジア

あの日のこと

日本26聖人


あの時は、幼きイエスの聖テレジアの何かの記念行事があった。何かは記憶がない。教会ではなぜか、巡礼旅行について語り信徒に勧めていた。

 キリスト教徒になったばかりのわたしも、巡礼旅行に行きたいと思った。聖地イスラエル、バチカンは、当時のわたしたちには遠い夢だった。サンパオリーネの友人たちと、せめて、日本での信仰の地を巡礼しようということになり、計画を練った。実行の段階では二人の巡礼旅行となった。福岡、平戸、佐世保、長崎、雲仙、阿蘇の旅となる予定だったが、友人が体調をくずし、長崎止まりとなったが、旅はそれで十分だった。その旅の一つひとつを綴っていくと、長い物語になる。しかし、あの日は特別だ。


十字架山

あの日、1964年のお正月のことである。福岡、平戸、佐世保から長崎へ。わたしは26聖人、大浦教会、浦上教会……と巡礼地を巡って行った。殉教者を心にいだきながら、十字架山の道行きをしていると、わたしもかつてのキリスト者のようにキリストに命をささげたいという内から込み上がってくる望みでいっぱいになった。

 宿泊先である女子パウロ会の応接間で夕食を待ちながら、「希望の丘」という雑誌を手にとった。そこには、アルベリオーネ神父の言葉が書かれていて、「今の時代の人々にキリストを伝える」ということが書かれていた。わたしはこれだ! と体中が震えるのを感じた。これだ、これがわたしの道だと確信した。もう十分だった。

 東京に帰ってから、すぐ修道院を訪問し、入会を決めた。巡礼を共にした友人も数ヶ月後に入会した。

 入会後だいぶ立ってからあの「希望の丘」を再読したいと思ったが、どの号なのか今もってはっきりとはしない。いつか探したいものだ。

マリア像

早いものである。あの日から37年の歳月が流れた。思うと、あの年は女子パウロ会の共同創立者であるシスターテクラ・メルロがご死去された年だった。意味ある年だったのだ。
 生きてきた、いや、生かしていただいたこの歳月を振り返ると、いつも主が先に道を用意してくださった、いつも主から運ばれてきたという思いでいっぱいになる。

 いろいろのことがあった。そして、これからも主が準備してくださった道を歩んで行くのだろう。その道はこれからも仲間と共に歩む道だと確信している。


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