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どうしてシスターに?

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シスター マリア・アマビレ 寺司ミツ子

まじめにやれよ!

シスター寺司

毎朝ささげるミサの祈りに、「ここであなたに奉仕できることを感謝し……」という一節があります。ミサの中心部で司祭が唱えることばです。神さまのおそば近くでお仕えできることのありがたさと、申し訳ない気持ちが交錯して、しみじみと感謝で満たされる一瞬です。

今から40年程前、英語を勉強したくて教会の門をくぐったわたしは、教えてくださる神父さまの質素な身なりと、敬虔(けいけん)な姿に心を打たれて、即座に英語の勉強は打ち切り、その時間を公教要理(カトリックの教え)の勉強と取り替えることに何のためらいもありませんでした。

神父さまのあまりお上手とはいえない日本語でのお話を聴くために、毎週せっせと教会に通いました。日曜日ともなればまだ洗礼を受けてもいないのに、一日二回のミサにあずかるのが当り前のように思い、これにもせっせと通いました。勤めの帰りには、残業で少々遅くなっても、聖堂のイエスさまに挨拶をするため、必ず教会に立ち寄りました。聖堂に鍵がかかっているときは、鍵穴から中をのぞき聖体ランプの赤い燈が見えればもうそれで満足でした。

そのころからパーマをかけるのをやめ、髪を真ん中から分けて垂らしましたので、母が心配し、会社の同僚からも「それ、イエスさまの真似?」とあきれられたりしたものです。まったくイエスさまに夢中だったあのころが何ともほほえましく思い出されてきます。

受洗後、福岡の修道院で黙想会があることを教会の掲示板で知ったわたしは、“;黙って想う会”ということばにひかれ、何もわからないまま参加費用の500円とお米5合を持参して、二泊三日を修道院で過ごしました。

そのころ指導してくださったシスターは賢明な方で、もう修道生活しか考えられない、とのぼせているわたしに、神さまのお望みをわからせていただけるよう、毎朝教会のミサにあずかるよう勧めてくれました。それからというもの、朝早く起きてまだ暗いうちに教会に足を運び、修道院に入るまでの数か月間、一日も欠かさずミサにあずかりました。

過ぎた長い年月をふり返ると、神さまのあわれみと忠実、そのご忍耐にただ感謝するばかりです。3年前他界した父の、最期のことばは、「まじめにやれよ」という一言でした。

今この修道院には、若いころも、そして歳を重ねた今も、やはりイエスさまに夢中なシスターたちがいっぱいです。


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