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どうしてシスターに?

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シスター マリア・テレジア

私は何のために生まれてきたのだろう

花


わたしが幼いころ、放蕩(ほうとう)な父の作った借金のために必死で働いていた母は、過労のために心臓を悪くしていた。発作が頻繁に起こるようになると、母は長女(といってもまだ小学校低学年ぐらいだったと思う)であるわたしに「葬式代もなかけん死なれんねえ」と言って、父が持って行かないように隠してあった通帳と印鑑の場所を教えてくれた。わずかだがいざというときのためである。

「お金のない人は死ぬこともできないのか?」「なぜ神はこの世に金持ちと貧乏人とを作られたのだろう?」「どうして……? なぜ……?」当時、周りの同級生たちがみなとても幸せそうに見え、うらやましかった。さいわい叔父の世話で始めた商売のおかげで、学校にも行くことができ、わたし立のミッションスクールで初めてキリスト教と出会うこともできた。

就職して仕事に慣れてきたころ「わたしは何のために生まれて来たのだろうか?」「人が生きる目的は?」などと考えるようになった。実際には幼いころの疑問がわたしの中でくすぶっていて「苦しむことの意味」の答えを探し求めていた。そして通勤で利用していたバス停の前にある教会の聖堂に、待ち時間を利用して行くようになり、洗礼を受けた。キリストを知ることによって、探し求めていたものを見いだしたからだ。

しばらくして教会の入口にある書店で、地図の載った「召命黙想会」と書かれたチラシをもらい、地図があるというだけで、ドライブに行く計画をしていた友人と目的地に選んだ。たぶん地図どおりに行けないだろうから、近くの温泉に入りおいしいものでも食べて帰ろうという軽い気持ちだった。ところが迷わずに着いてしまい「どうしよう……」と車の中で相談しているうちに、何人ものシスターたちが「いらっしゃ~い」とニコニコと出て来たのでもう帰れない。結局そのたった一度の黙想会で修道院に入ることを決めてしまったようなものだった。

入会するまでにはそれから1~2年かかったが、その間、苦労をかけた母の反対をはじめ多くの困難があった。それは修道召命が本当にあるのかどうかを見分けるために意味のあるものだったと思う。苦しみの中にあるときにはなかなか理解できないが、神はわたしがわたしにしか生きられないいのちを生きるために、必要なものを、必要な時に、必要なだけくださっている。

幼いころの思い出はわたしにとって苦い体験だが、もしそのことがなかったら今のわたしはなかっただろう。ありのままのわたしを愛してくださる神は、自分自身でさえ もてあます弱さや罪をも、やさしく抱擁してくださっている。


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