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山本神父入門講座

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9. 祈りについて

イエス

イエスは、説教や癒しの他に、よく一人で祈っておられた。弟子たちはそれに気づいていたが、祈りがどんなことなのか、どうすれば祈れるのか分からなかった。ある時イエスは祈りについて語られた。

「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」(マタイ6章7~8a節)。

祈りと言えば願いごと。祈りの力は、願いが叶(かな)うか否かで決まる。こう考えるならば、祈りの言葉数が自然に増える。しかし、イエスの考えは違う。

「彼らのまねをしてはならない。
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください』」(マタイ6章8~13節)。

これがキリスト者がいつも唱えている「主の祈り」である。この祈りは、3つの部分に分けられる。

はじめの部分は、父である神についてである。第3の部分は赦し、誘惑、悪い者からの救いである。


そして、第2部の願いごとは、極端に短く、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」としか言われず、具体的には何も出てこない。父は願う前から、必要なものをご存じなのだから、細かく言わなくてもよいとイエスは考えておられる。

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7章9~11節)。


私たちは、祈りというと 自分の願いを叶えてほしいと考える。「主の祈り」は、願いごとさえも、天におられる父に向けられる。これは不思議な祈りである。

これを唱えるとき、イエスと天の父との深い交わりに加えていただくことを感じる。また、本当に願いごとがあるとき、それを心に念じて唱えるとき、その願いが父の耳に達したことを信じることができる。

そして、朝、起きたとき、夜、床に就く前に唱えるこの祈りによって、私たちは高められ、赦せない人を赦し、厳しい試みに耐える力を与えられるのを感じる。そして、それとは名指さずに願っていたことが、いつしか叶えられていることに気がつく。

「主の祈り」を、私たちがまず、毎日唱えることから始めよう。

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Laudate から:カトリック教会で唱える「主の祈り」はこちらへ


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