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山本神父入門講座

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15. 砂上の楼閣

ナザレの花
ナザレの花

「地震のない国はいいわね、簡単で」と近所の婦人たちが話していた。目の前では、積み木を重ねる要領で、職人が煉瓦(れんが)を並べ、セメントを塗り、また煉瓦を並べて家を建てていた。私は小学校4年生で、インドのムンバイにいたときの思い出である。

「でも土台はどうなのかしら」、「そりゃちゃんとしてるわよ。いくら何でも」と話は続いていた。何日か前に見たときは、ただ簡単な溝が掘ってあっただけだったように思ったが、建築には土台が大切なのだと、少年山本は教えられた。


こんなことを思い出させたのは、家を建てた二人の人についての、イエスのたとえ話である。一人は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」(ルカ6章48節)。  もう一人の人は、土台なしに家を建てた人である。

イエスはなぜこんな話をなさったのだろうか。それは自分のまわりに集まってくる人々のことを話すためであった。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」。イエスはこのように切り出された。そして、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう」(ルカ6章46~47節)と続け、今の例を上げられた。


反対者も多かったが、たくさんの人々はイエスを尊敬し、中には待望の救い主・メシアではないかとさえ思う人もいた。こうなると、「とにかく『大物』なのだ、知り合いになっておこう。何かの役に立つ」という者も出てくる。「困ったときの神頼み」ということばもあるように、神さまとか、救い主とかいうと、人間は自分の願いがかなえられるようにということをすぐ考える。ローマの支配下にあった母国イスラエルの解放とか、自分たちの幸福等の実現を期待して、イエスのまわりに人が集まったとしても不思議ではない。だから、教えを聞いた人もみなが本気だったともいえない。

それに、イエスの教えは、天の父のお望みを一番大切にせよとか、隣人を自分のように愛せよとか、実行はそんなにやさしくはなかった。聞くだけで実行しない人がいても不思議ではない。そのような人たちについてイエスは言われた。「しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」(ルカ6章49節)。


このたとえ話は、きびしく聞こえるかもしれない。しかし、イエスは、ただ教えの実行を要求するだけではない。聞くだけではなく、ちょっと試しに教えを実行してみませんか。そうすれば、すぐわかることだが、イエスは必要な力と恵みをちゃんと用意しておられる。恵みは理屈の問題ではなく、もらってみて初めて「お恵み」と感じるものなのではないだろうか。


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