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山本神父入門講座

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26. 二回目の受難予告とエルサレムへの出発

変容の山
変容の山

変容の体験で弟子たちは変わったのだろうか。それが知りたい。  変容の翌日、下山したイエスと弟子たちは、大勢の群衆に迎えられた。その中に一人の男がいた。一人息子が悪霊にとりつかれ、けいれんを起こし、泡をふき、ひどく苦しめられていると訴えてきた。なかなか離れない悪霊を追い出すように、弟子たちに頼んだが、彼らにはできなかったというのである。

イエスは言われた、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか、あなたの子供をここに連れて来なさい。」いつまでも独り立ちできない弟子たちの不甲斐(ふがい)なさを嘆いておられるようにも聞こえる。

子供が連れて来られると、途中でも暴れた悪霊を叱(しか)り、直ちに子供を癒(いや)して父親にお返しになった。                         (ルカ9章37-43節)

「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。『この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている』」。二回目の受難の予告であるが、「弟子たちは、その言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」(ルカ9章43-45節)。 ペトロの信仰告白のときのように、天の父は、受難予告の意味を明かしてはくださらなかった。弟子たちがイエスの受難の意味を理解するのはまだまだ先のことのようである。


恐れと欲求不満のなかで、弟子たちは、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」と議論を始めた。イエスは子供をそばに立たせて、何か言おうとされた。受難と死に向かうイエスの姿は、<無力な弱い子供>のようなものである。メシアである自分たちの先生イエスが、そんな<無力で、弱い>者になることを受け入れるのは極めて困難である。もしそれを可能にするものがあればそれは信仰である。だからイエスは言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、<「価値のない者」として殺されるわたしを>受け入れるのである。<そのように「無力で、弱い、価値のない者として死ぬ>わたしを受け入れる者はわたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(ルカ9章48節)。弟子たちの信仰は、まだ、そこまでは成長していなかった。

深刻な話しが続いているとき、弟子の一人ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」(ルカ9章49節)。 使徒たちは、<自分たちと一緒に、イエスに従う>ことを特権と考えていたようだ。だから、やめさせて、「差をつけよう」とした。いかにも、だれがいちばん偉いかで議論する十二人らしい考え方である。ところがイエスの考え方、感じ方、とらえ方は違った。「イエスは言われた。『やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(ルカ9章50節)。弟子たちとイエスのこのような意識の違いこそが、弟子たちにイエスの受難、十字架、復活の予告の理解と受け入れを妨げていたのである。


弟子たちは、変容のあとも、そのままイエスの受難予告を受け入れきれないでいた。しかし、そうこうするうちに、天に上げられる時期が近づいてきた。イエスは、エルサレムに向かう決意を固められた。

イエスが先に遣わされた弟子たちは、準備のためにサマリア人の村に入った。しかし、村人は、エルサレムを目指して進んでおられたので、イエスを歓迎しなかった。すると、「雷の子ら」とも呼ばれていたゼベダイの兄弟ヤコブとヨハネがそれを見て言った。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。またしても、力に訴えた。イエスの感じ方とは異なっている。「イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った(ルカ9章51-56節 参照)。


十二人は善意であった。それでも、イエスの受難の予告を受け入れきれなかった。ここに現れている、ごく人間的な傾きがその受け入れを妨げていたのである。弟子たちがしたことは、わたしたちもしそうなこと、現にしていることである。そういうことを脱却して、イエスの考え方、感じ方とらえ方を身に着けさせていただきたい。


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