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山本神父入門講座

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28. 七十二人の派遣とその成果

イエスと弟子たち

エルサレムへの旅の途中で、弟子の候補が三人登場する。
 イエスに従いたいと言って来た最初の人に、イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。イエスが声を掛けられた二人目は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って神の国を言い広めなさい。」と言われた。父母の葬儀を丁重に行うユダヤ人の信心を根底から覆うようなことばで、イエスは、肉親よりもイエスを大切にすることが求められることを告げられた。三番目の人も、自分から従おうとするが、家族にいとまごいに行くことを願った。イエスは、「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた (ルカ9章57-62節)。この三人は結局「不合格」になったが、イエスの弟子に必要な覚悟がはっきりと示された。


イエスは十二人とは別に「七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ10章1-2節)。 宣教活動の進展によって、イエスと十二使徒だけでは手が回らなくなったのである。ルカは、歴史の流れのなかで全世界に広がっていく教会の芽を感じていたに違いない。七十二人への教えは、基本的には、現代世界で働く宣教師に対するものと同じである。

「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶するな」(ルカ10章3ー4節)。立ち止まってする挨拶は、とかく長話になるからである。

大切なことはただ一つ。イエスによる派遣である。その目的は、神の国が近づいたことを告げ知らせ、平和をもたらすためである。危険や試練に対する力、旅に必要な物、派遣先での生活、それらはすべて派遣したイエスに任せ、派遣された者は、ひたすらその目的の実現のために尽くすのである。

より快適な宿を探したりはしないで、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、その町の病人をいやし、また『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎えいれられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃(ほこり)さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」(ルカ10章8-12節)。 創世記19章に出てくる罪の町ソドムよりもひどい罰を受けると言うのはなぜか。七十二人を受け入れない人や町は、派遣したイエスを拒み、そして、イエスを遣わした神を拒むからである。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」(ルカ10章16節)。

七十二人は喜んで帰って来て、報告した。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(ルカ10章17節)。イエスから与えられた力と権威を感じたからである。彼らが成功に酔って、いちばん大切なことを忘れないように、イエスは言われた。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10章20節)。

宣教に派遣されて喜んで働いてきた七十二人、そして、受難の予告に対する反応は鈍いが、一生懸命にイエスに従おうとしている十二使徒のことを考えながら、イエスは聖霊による喜びの感動を覚えた。

少しずつではあるが成長している使徒や弟子たち。天の父が、彼らには、イエスがメシアであることを示してくださっている。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心(みこころ)に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかにはだれもいません」(ルカ10章21-22節)。


イエスは、祈りのなかで、神である父に、弟子たちのことを感謝しておられる。そして、弟子たちを元気づけようとしておられる。「イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たがったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである』」(ルカ10章23-24節)。 厳しいことも要求されるイエスであるが、優しい心遣いで弟子たちを育てるイエスはラビ、師、先生である。わたしたちはこのイエス先生に導かれているのである。


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