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山本神父入門講座

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34. イエスの嘆き、涙、怒り

主涙し給う教会
主涙し給う教会

弟子たちの歓呼の中、行列はエルサレムに近づき、都の見える地点まで来た。そこで突然イエスは泣かれた。弟子たちを黙らせろというファリサイ派の人々に、強い調子で答えたばかりのイエスが、なぜ泣かれたのか。

ルカは書いている。「イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら... 。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁(ほうるい)を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである』」(ルカ19章41-44節)。


イエスはエルサレムが自分を拒否していることを知っておられた。三度まで受難の予告をし、弟子たちの先頭に立って旅をしたイエスは、自分が拒絶されることは覚悟の上であった。今更、恐れ、ひるむことはない。しかし、イエスを拒否することで、エルサレムは、罪人を悔い改めさせるために、失われたものを捜して救うために来られた救い主を拒み、回心と赦しによる救いを受け損なった。イエスはそのことを悲しまれたのである。

イエスの入城は、神の訪れの時だったのに、エルサレムはそれを認めなかった。その結果、独り子を与えるほどに世を愛し、世を裁くためではなく、御子(みこ)によって世が救われるために、御子を世に遣わされた神の救いの計画が自分たちの上に実現することを阻む結果になった。(ヨハネ3章16-17節 参照)。 世の救いのために遣わされたイエスにとって、これほど悲しいことはない。

しかし、このようなことは、イエスの入城に始まったことではない。神の十戒をうけ、シナイ山で契約を結んでから、神はイスラエルを愛し、ご自分の民とされた。しかし、イスラエルは、その愛に背き、契約を破った。バビロンの捕囚を始め、神はいろいろな形でイスラエルに罰を与えた。また、預言者を送って回心を呼びかけ、民を救おうとされた。そのような神の救いの計画の中でイエスは遣わされた。そのすべての経緯に思いを馳(は)せたとき、イエスは旅の途中、別のところでイエスがエルサレムのために嘆かれた。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時まで、決してわたしを見ることがない」(ルカ13章34-35節)。 イエスはこの思いを、「ぶどう園と農夫のたとえ」(ル カ20章9-16節)でも語っておられる。併せて読むことをお勧めする。


主涙し給う教会内のモザイク
主涙し給う教会内のモザイク

エルサレムのために泣かれたイエスは、都が敵に包囲され、破壊されてしまうことを予告される。そして、エルサレムには、その予告の通り、紀元70年ローマ軍の攻撃を受け、徹底的な破壊によって陥落してしまった。

エルサレムに入城されたイエスは、神殿の境内に入られた。神殿の境内、異邦人の庭には、巡礼者の便宜を図って犠牲用動物の売買と、神殿税納入に指定されたシェケル貨幣への両替が認められた簡単な市があった。巡礼者にとっては、動物を携えてきて、犠牲に適格か否かの検査を受けるより、神殿境内で検査済の動物を買う方がはるかに便利だったからである。イエスは神殿に入ると、そこで商売していた人々を追い出し始めて言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(ルカ19章45-46節)。 神殿境内でのイエスのこの言動もまた、エルサレム入城と同じように、神が演出された一種の預言のように思われる。そこで伝えられるメッセージは何だろうか。

第一は、イエスの権威の主張である。律法に定められた神殿の最高権威は祭司長であり、神殿守衛長や最高法院の議員、祭司やファリサイ派の人々、律法学者たちがその周囲にいた。そして、彼らも自分たちが権威者だと思っていた。その神殿で、イエスはそれが「わたしの家」であると主張された。受難と十字架の死は、イエスの無力を権威の失墜(しっつい)を示すかのように見える。しかし、まさにその受難と死によって、イエスの権威が確立され、祭司長たちの権威が失墜するのである。ほんの一瞬かも知れない、この場面で、イエスは真の権威の所在を示したのである。

第二は、イエスの怒りである。犠牲用動物の売買と神殿税のための両替は、合法的と認められていたが、売る人や神殿関係者が、利益追求に目がくらんで、いつしか巡礼者の援助という当初の目的からはずれ、純粋さを失った。祈りの家であるべき「わたしの家」が、利益むさぼりの場「強盗の巣」に変質したのである。それをイエスは怒られ、祭司長を頭とする神殿権威者に、「あなたたちがしたのだ」と糾弾されたのである。信仰生活の純粋さを損なう欲望、所有欲、権力欲に警戒しなけばならない。


イエスは決然と自らの権威を示し、毎日、神殿で神の国のことを教えておられた。律法による権威者たちと、真の権威・イエスとの対決である。「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀(はか)ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」(ルカ19章47-48節)。 しかし、これでイエスが勝利をおさめられたのではない。やがて民衆は、祭司長、律法学者、民の指導者たちの側につくのである。イエスの受難の予告が実現し、その本当の意味が明らかになるのはそれからである。


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