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山本神父入門講座

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43. イエスの復活 2

パンを裂くイエス
パンを裂くイエス

安息日の翌日、イエス死後「三日目」の様子はルカも描いている。マグダラのマリアと婦人たちが墓から戻り、イエスの遺体は見当たらず、輝く衣を着た二人の人が、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と言われたと報告したが、たわ言のように受け取られ、信じてもらえなかった。ペトロが墓に確かめに行ったが、「亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」。

そのころ、二人の弟子がエルサレムを去り、60スタディオン (約12㎞)離れたエマオへ向かった。彼らは歩きながら、一連の出来事について話し合い、論じ合っていた。そこへ、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった。「旅人」が声をかけた。「歩きながら、やり取りしているその話しは何のことですか。」二人は暗い顔をして立ち止まり、クレオパという一人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。

「旅人」は聞いた「どんなことですか」と。この問いに、二人はせきを切ったように話し始めた。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」彼らは、衝撃と困惑を隠さず語った。すると、黙って聞いていた「旅人」が言った。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてが信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。 見知らぬ「旅人」からバカ呼ばわりされて二人は驚いたに違いない。「旅人」は会話の主導権を握り、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」メシアについて書かれていることを説明した(ルカ24章13-27節)。


そうこうするうちに、エマオが近づいてきた。「旅人」はさらに先へ行こうとする様子だった。旅人に宿を提供するのは当時の慣習であった。そのうえこの二人は「旅人」からもっと話しを聞きたいと思っていたに違いない。「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので」「旅人」は共に泊まるため家に入った。事は極めて自然に、静かに運んでいった。

一緒に食卓に着いたとき、「旅人」はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。その時である。二人の目が開け、「旅人」がイエスだと分かった。しかし、イエスの姿は見えなくなった。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカ24章32-35節) 。

エマオに向かった二人にが体験したことは、マグダラのマリアの体験と共通するものがたくさんある。しかし、この二人の体験の特色は、次の二点にある。まず、「旅人」が聖書を説明したとき、心が燃えたこと。そこで、二人は、自分たちが、メシアらしくないと考えていたイエスの十字架の死こそ、神が、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光にはいるはず」(ルカ24.26)とお定めになったことを感じたのである。次は、「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった」(ルカ24章35節)ことである。


エマオ
エマオ

エマオから戻った二人と十一人が話しているところへ、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24章36-37節) 無理もない。彼らにとっては、まず、亡くなった方が、皆の真ん中に立つということはあり得ないことであった。また、かりに、復活されたとしても、戸を閉ざした部屋に、扉も開けずに突然現れることもまた、あり得ない事であった。二重にあり得ないことを経験している弟子たちに、イエスは、手と足を示し、焼魚を食べて、まず亡霊ではないことを示された。それから、一段高いレベルの話をされた。

「イエスは言われた。わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24章44節)。 婦人たちには、輝く衣を着た二人が、エマオへ向かう弟子には「旅人」がしたことを、イエスはここでもしておられる。そして、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24章45-49節)。

復活したイエスは、「出現」するたびに、何か新しい面をひろげ、新しい使命、役割のようなものを与える。マグダラのマリアを使徒たちの所に遣わして、天の父のもとに上ることを告げさせた。エマオの弟子たちは、イエスが復活して、生きておられること、そして、それが聖書のことばの説明と、パンを裂くことで分かるようになったことを十一人に知らせた。今度は、「次のように書いてある。『....罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24章46-48節)。使徒たちの新しい使命である。その使命の達成のために、イエスは、「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)。

この使命は、受難まえのイエスが宣教活動をしたこの地上で、使徒たちが行うことになる。しかし、彼らは神である父、父のもとに上げられたイエスとのつながりにおいて、それを行うのである。イエスの復活は天と地の不思議なつながりを開いたように思われる。聖書は、それを更に明らかにしようとしている。


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