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山本神父入門講座
51. エルサレムの使徒会議
ペトロが、ユダヤ人の食物規定、異邦人との交際・会食禁止を神が無効にされたことを幻で知ったのは、地中海に面したヤッファであり、異邦人コルネリウスの家でそれを体験したのは同じ海岸沿いの町カイザリアであった。いずれもエルサレムで起こったのではなかった。そのため、ペトロがエルサレムに戻ったとき、割礼を受けていない異邦人の家に行き、食事を共にしたことを非難された。ペトロの説明で人々は納得したが、しこりが残った。
その後エルサレムでは、ヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパ一世が、ゼベダイの子ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し、それをユダヤ人が喜んだのを見て、ペトロを捕らえ牢に監禁していた。処刑を翌日に控えた夜、神は天使を遣わしてペトロを救い出してくださった。ヘロデ王は間もなく急死した (使徒言行録12章18-23節) 。
そして、「神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰っていった」(使徒言行録12章24節)。この二人は、アンティオキア教会から、大飢饉にあった信者たちへの援助の品を届けエルサレムに遣わされていたと言われている。
アンティオキア教会では、「バルナバとサウロをわたしのために選びだしなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」(使徒言行録13章2節)。という聖霊のお告げを受けて、二人の上に手を置いて出発させた。パウロの第一回宣教旅行である。彼らはマルコと呼ばれるヨハネを連れて、まずバルナバの故郷キプロスに渡り、全島を巡り、地方総督セルギウス・パウルスを信仰に導いた。パフォスから船出して、現在のトルコに渡り、パンフィリア州のベルゲに行った。ここでヨハネは一行と別れてエルサレムに帰った。
一行はピシディア州のアンティオキア、イコニオン (現在のトルコのコンヤ) 、リストラ、デルベに行き、そこから引き返して、ベルゲを経てアタリアに行き、そこから船出して、出発したシリア州のアンティオキアに戻った。パウロとバルナバは、どこでもユダヤ人の会堂で、ユダヤ人、異邦人を区別せずに宣教した。その結果いつもユダヤ人との対立が生じ、ユダヤ人から迫害を受けた。パウロの一行が、異邦人を信仰に受け入れるとき、割礼は授けず、洗礼だけを授けるのを見て、ユダヤ人たちが、キリスト者たちをモーゼの律法にそむくと攻撃したのである。
パウロとバルナバがアンティオキアに戻って間もなく、「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」 (使徒言行録12章1-2節)。一行は道すがら異邦人が改宗した次第を詳しく説明して信者たちを喜ばせた。エルサレム到着後も、一行は使徒たち、長老たち、信者たちに歓迎された。「ところがファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった」(使徒言行録15章5節)。これがエルサレムの使徒会議である。
議論が重ねられたあとペトロが立って言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」(使徒言行録15章6-9節)。ペトロはあちこちで異邦人が信仰に入ったとき、割礼を受けずに洗礼だけを受けた人に、神が、割礼を受けたユダヤ人と同じように、聖霊をお与えになったことを主張した。それはすべての人の心を見通される神が、異邦人を信仰に受け入れられたことを証明するものだとしたのである。
ペトロに続いて、パウロとバルナバが、「自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業」について話した。それが終わると、ヤコブが話をまとめた。異邦人が信仰に入る時の神の配慮は、ペトロの言った通りで、それが預言者の教えに合致していることを、アモス(9章11-12節)を引用して示した。その上で、彼は裁定をくだした。「それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血を避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです」 (使徒言行録15章19-21節)。
第2回宣教旅行
その決議に従って、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、バルサバと呼ばれるユダとシラスを選んで次の手紙を託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟にあいさついたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。... 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに、重荷を負わせないことを決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」 (使徒言行録15章23-29節)。 アンティオキアの信者たちは、この手紙を読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。ユダとシラスは、信者たちを励ますために、しばらくアンティオキアに滞在した後、エルサレムに戻って行った。パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって宣教するが、やがてパウロとバルナバは、ヨハネを同行するか否かで衝突し、別々に*1宣教旅行に出発した。
このようにして、初代教会の最大の難問題であった、律法とキリスト教との関係に解決が与えられた。そして、十二使徒と長老たちを中心にした、エルサレムの使徒会議が、十二使徒の後継者である全世界の司教が集まって教会の問題を協議し、決定する機関としての公会議に道を開くことになる。最初の公会議は、*2第1ニカイア公会議(325年)であり、最後の第2バチカン公会議(1962-65)まで、21の公会議が開かれた。
- *1 宣教旅行
- これがパウロの第2回宣教旅行である
- *2 第1ニカイア公会議
- 第1ニケア公会議とも言われる
Laudate 注: